竜馬の指の傷は、翌々日になってやっと血が止まった。
竜馬がゆく6 P293
「指の傷ともいえんな」と、竜馬はつきっきりの看病をしているおりょうにいった。
「体が雲に乗っているようだ」
極度の貧血状態にあり、頭がうずき、ときどき心臓の鼓動までおかしい。
西郷がよこした外科医木原泰雲は、蘭学を学んだひとで、信頼のできる腕を持っているが、なにしろ傷は、蘭方でいう「動血脈創(どうけつみゃくそう)」である。傷を受けた直後なら欠陥結さつなどもできるが、いまとなれば難しいし、その上、負傷後、数時間も経っており、その間、泥水のなかなどをくぐっている。あと、悪質な化膿がはじまるのではないか、という疑いも濃い。
「むずかしい傷ですぞ」と、木原泰雲も顔をしかめたほどであった。
北里柴三郎
黒船来港の1853年に生まれる
北里柴三郎は1853年1月29日(旧暦・嘉永5年12月20日)肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まれました。
1853年(嘉永6年)春 坂本龍馬は初めて江戸に留学した年です
1853年(嘉永6年)6月 ペリーが横須賀に初めて乗り込んできた年です
兄弟を次々とコレラで亡くす
1817年頃インド・ガンジス川で大流行したコレラは、1826年〜の第2次パンデミックも鎖国中の日本には侵入しませんでした。しかし第3次にヨーロッパでパンデミックを起こした時期に日本は、四カ国条約など、ヨーロッパからの人々を受け入れだしており、あっというまに全国に拡大しました。
一度かかると、下痢などをして2〜3日でコロリと死んでしまうため、日本では「コロリ」と恐れられました。九州から広まったコレラパンデミック。この時に弟・助五郎ら兄弟を失うことになりました。
(ストーリーでたのしむ伝記 北里柴三郎/岩崎書店 より)
明治に変わり、学び舎の藩校がなくなる
幼少の時から武士・軍人に憧れていた柴三郎は、親戚の家に教育のため預けられます。
漢学者の伯父からは武士の基本となる四書五経を教わります。続いて母の実家に預けられ、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学びました。
十四歳の時に実家に戻り、1869年(明治2年)熊本藩の藩校「時習館」に入学してオランダ語を習得するなど勉学に励みましたが、明治政府の廃藩置県のおかげで、熊本藩がなくなり学校が閉鎖することに。
熊本藩校「時習館」には約半年あまりしか通うことができませんでした。
1871年に18歳で熊本医学校に入学。同校で教鞭を取っていたオランダ人医師コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトの指導を受けます。「時習館」でオランダ語を学んでいた柴三郎はマンスフェルトの助手になるまでに。そこでマンスフェルトに教えられた医学の道を志すことを決意します。
東京医学校にこっそり入学
明治7年(1875年)11月 21歳の時に受験。
当時の文部省の規則で、医学校を受験する者は20歳以下と決められていました。
そこで年齢をごまかして18歳で受験して合格し、東京医学校(明治10年 東京大学医学部に改称)に入学しました。(ストーリーでたのしむ伝記 北里柴三郎/岩崎書店 より)
この時期ふたたび日本国内にコロナ感染者が増え、原因不明の病気に国民の不満が湧き上がっていました。
柴三郎は、「医道論」という論文を書き、「医者の道とは病気を予防することである」と当時画期的な予防医学の必要性を訴えました。
ドイツ最新技術の細菌学を知る
明治16年(1883年)東京大学卒業後、内務省衛生局(厚生労働省の前身)に就職。
この年の冬にドイツから緒方正規が帰国。緒方が持ち帰った本場ドイツ最新の細菌研究の方法を学びました。
コッホの4原則
ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
その微生物を分離できること
分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こさせること
そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること
緒方正規
北里柴三郎と同じ肥後国生まれの同学年。3年早くに東京医学所に入学。卒業後ドイツ留学で当時細菌学の頂点であるコッホが研究指揮を執るベルリン大学衛生研究所で細菌学を学ぶ。
1886年ドイツに留学。
北里柴三郎は、コッホの4原則を元に九州で発生したコレラの原因となるコレラ菌を確認するなど国内の活動が認められて、ドイツ留学生に選出されました。
病原微生物学研究の第一人者、ローベルト・コッホに師事して研究に励みます。
まず取りかかったのはチフス菌・コレラ菌の培養についての研究。細かな違いを作るため、酸性・アルカリ性の薬品27種に濃度を変えた100種類を超える培養実験に取りかかります。
最新の注意を払う試行錯誤の研究に打ち込み、細菌の性格や弱点をあぶり出していきました。
脚気菌の発見ニュースと柴三郎の反論文
江戸時代から日本人を悩ませていた脚気(かっけ)。武士や金持ちがかかる病気といわれ、日本〜アジア圏でした発症例がない地域病です。
脚気の原因がアジア特有の細菌が原因だという論文を、日本の緒方正規が発表。日本国民を悩ませていた脚気の原因を突き止めたことで、一躍脚光をあびます。
そして3年後にオランダのペーゲルハーリングが原因菌を発見しました!
北里柴三郎は、この原因菌発見の論文に疑問を持ち、反論の論文を発表しました。
ペーゲルハーリング博士は、すぐに応用実験をして間違いを気づき「よく教えてくれた」と北里に礼をのべました。
しかし日本では…
日本で発表された反論文は「北里柴三郎は、先輩が発表した論文にケチを付けた恩知らず」と大ブーイングが起こりました。帝国大学医科大学教授・緒方正規は日本トップの細菌学者。
日本国内では研究者で作家でもある森鴎外や、帝国大学医科大学の関係者から激しいブーイングが起こっていました。
破傷風菌の治療方法の確立
破傷風菌の治療方法の確立
破傷風(はしょうふう)とは、傷口から体中に入りこんだ破傷風菌(はしょうふうきん)が、全身の筋肉をけいれんさせる病気で、悪化すると呼吸不全となって死んでしまいます。
明治22年(1889年)。ローベルト・コッホの元で研究を続けて、世界で初めてとなる破傷風菌の純粋培養に成功!
翌1890年には破傷風菌の毒素を中和する抗体を発見しました。さらに、毒素を無毒、弱毒化して少量ずつ注射すると、体内でその抗体が作られ、病気の治療や予防が可能になる「血清療法」を開発。まだ伝染病に対する有効な原因療法が存在しなかった当時、血清療法は画期的な手法でした。
柴三郎帰国
北里柴三郎の留学は当初2年の予定でしたが、活動が認められ期間を延長して合計6年あまりに、数々の発見をしました。そして、細菌研究を日本のために活用するために帰国を決意します。
帰国にあたり、フランス・アメリカ・カナダを回って各国の医療制度や衛生制度などを視察。アメリカでは、現在の価値で年俸4億円と研究費40億円で誘われましたが「日本のために」と帰国の決意は変わりませんでした。
1892年(明治25年)39歳になった柴三郎が帰国。
しかし、国内で活動拠点を与えられません。脚気菌の反論を否定した北里柴三郎を許さない帝都大学の派閥が邪魔をしていたようです。(3年も前の出来事なのに)
福沢諭吉が手助けを
帰国後半年以上身動きが取れなかったところ、知人から福沢諭吉を紹介されました。
福沢は北里のために慶應義塾大学を卒業した成功者たちに声を掛け自身の「伝染病研究所」を持つこととなりました。
ペスト菌の発見と予防
1894年、香港でペストが流行したときに、北里柴三郎はその原因を調査に向かいました。そして、わずか2日で、ペストは「ペスト菌」が原因であることに気づきました。
さらに、患者の家にネズミの死体が多いことに気づき、ペストが広がる原因となるネズミを退治すれば、ペスト予防になることも発見しました。
柴三郎(しばさぶろう)は、ペストの原因となるネズミを退治するために、家でネコを飼うことをみんなにすすめました。
未だ衛生環境が整っていない当時の日本では、ネズミが家の中に入れないようにする方法や、ネコが自由に家へ出入りできるようにする方法などの細かい指導が、簡単で具体的なペスト予防となりました。
第1回ノーベル賞候補に
細菌学の様々な発見を評価され、1901年(明治34年)の第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名のうちの1人)になりました。
ベーリングと北里柴三郎の連名で発表した「ジフテリアの血清療法発見」(1890年)の業績を評価されてノミネートされましたが、受賞したのはベーリングひとり。
受賞には、同学問の教授たちの推薦が有利に働くのですが、日本国内の「脚気菌に反論した北里」という邪魔が一因と言われています。
日本の細菌学の礎に
北里研究所を設立
1914年、国立伝染病研究所所長を辞任した北里柴三郎は、私立北里研究所を設立し、狂犬病やインフルエンザ、赤痢などの血清開発を続けました。1918年には社団法人として認可され、2008年、北里学園と統合し、学校法人北里研究所として現在に至ります。
後進の指導にも熱心に取り組んだ北里博士は、伝染病研究所から北里研究所時代で過ごした40年あまりの研究生活の中で、ハブ毒の血清療法を確立した北島多一、赤痢菌発見者の志賀潔、サルヴァルサン(梅毒の特効薬)を創製した秦佐八郎、寄生虫が媒介する病気の研究で業績をあげた宮島幹之助、黄熱病の研究で有名な野口英世など、多くの優秀な弟子を輩出しています。
数多くの弟子と慶應義塾大学医学科創設
福澤諭吉の没後15年目にあたる1917年、慶應義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創設にも関わり、初代科長、病院長に就任し、福澤諭吉の恩に報いました。
令和6年7月、新1000円紙幣に
表面には北里柴三郎(きたさと・しばさぶろう)が採用されました。破傷風血清療法の確立、ペスト菌の発見のほか、北里研究所を創立し後進の育成にも尽力したことが評価されました。裏面には、江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎の代表作で知名度も高く、世界の芸術家に影響を与えた「冨嶽三十六景(神奈川沖浪裏)」が描かれています。
新紙幣には、偽造防止の様々な仕掛けが施されています。
中央左側にはストライプ型のホログラムを採用。3Dで表現された肖像が回転する最先端技術を用いています。この技術の銀行券への採用は世界初です。
現行の「すき入れ」に加えて、新たに高精細なすき入れ模様を採用しました。肖像の周囲に、緻密な画線で構成した連続模様が施されています。
参考文献:ストーリーで楽しむ伝記北里柴三郎 岩崎書店2022