岡上新輔(樹庵)

土佐藩

安政元年十一月二十八日

「あら、竜馬」乙女は嬉々とした声をあげた。
「今度の地震でかえってきたのですね」
ほどなく、義兄の岡上新輔が戻ってきた。「きちょったか」
「どうせしばらく江戸には戻らんのじゃろ。乙女、うんと馳走してやれ」
「サーチ」
「サーチならよかろう。江戸の黒船騒ぎはどうじゃ」と根掘り葉掘り訊いた。さすが若い頃長崎に留学していただけあり、海外の動きに敏感な神経をもっていた。
「すると竜馬は、攘夷党じゃな」
「もちろんそうです。アメリカはばかにしちょります」
「そのばかどもは、どえらい文物をもっちょる。医術だけじゃなく黒船大砲どっさりもっちょる」


写真:中国医薬の祖神 神農炎帝(しんのうえんてい)
商売の神 百草を嘗めて効能を確かめ、医薬と農耕を諸人に教える

memo 皿鉢料理

土佐のハレの料理・サーチ料理。
南国土佐の海の幸が豊富で、大きな一皿に芸術的な盛り込みが目を引きます。
なまもの(鰹たたきや刺身)・寿司・組み物 の3種類を盛り込むのが基本となります。
組み物は、土佐天という揚げかまぼこ、煮物、酢の物を総称したものです。
土佐名物のたたきといえば、鰹たたきが浮かびますが、ウツボのたたきも絶品です。

岡上新輔(岡上樹庵おかのうえじゅあん)

乙女は「坂本のお仁王様」と呼ばれたぐらいで、大きな人でした。竜馬とほぼ背丈が一緒で、五尺八寸(約175cm)もあったと言います。そのせいなのか、なかなかお嫁にいけなかったのですが、岡上新輔という医者に嫁ぎました。
新輔は、身長が低く怒りやすかったとされています。

代々土佐藩主の御典医の家で、岡上新輔も山内容堂の寵愛を受けて、度々岡上家に訪れたり衣類などを下賜していました。
龍馬が脱藩した時には、山内容堂に働きかけて坂本家に害が及ばないように働きかけたと言われています。

乙女との間には一男一女をもうけましたが、夫婦仲はあまり良くなかったと伝わっており、有名な新輔の浮気の他にも、新輔の祖母との仲も芳しくなかった乙女は実家に戻ります。

実家に戻った乙女が、この後の人生をどう過ごすか悩んだあげく、龍馬に「もう別れたいのだ」と乙女にしては湿っぽい手紙を書いています。
慶応3年(1867年)に岡上新輔と乙女は離縁しました。