浪人浮浪雲会津小鉄3 智福院 吉田山に竜馬が登った時には、すでに夕暮れで、紅葉の色が、斜陽を含んで血をしたたらせたように艶かしかった。ほどなくしてお田鶴様もあらわれ、炉の向こうに座った。「竜馬殿もいいお顔つきになられました」「お田鶴様は、一段と美しく御成遊ばしま... 1858.10.08浪人浮浪雲
浪人浮浪雲会津小鉄4 産寧坂 ふたたびお田鶴様から使いが来て、封書を手渡した。ー会いたい。という。指定の時刻は宵八時。ところも清水産寧坂の料亭「明保野」である。 「田鶴はこまるのです」「なぜですか」「そりゃ、女でございますもの」この時である。庭の植え込みが、わず... 1858.10.09浪人浮浪雲
浪人浮浪雲会津小鉄5 八坂の塔 女中が「お供が参っております」と告げた。土間には藤兵衛が控えている。「妙に虫の知らせがしたので、お顔だけ拝めれば、それでいいんです」「藤兵衛すぐ上がれ。お前のあとに人がつけている」 藤兵衛を表から逃すと、お田鶴とともに裏口から出た... 1858.10.10浪人浮浪雲
土佐藩謀者竜馬の帰還 嘉永七年三月二十五日 品川藩邸 竜馬は、土佐藩の品川陣地に戻って、桂小五郎からきいた長州陣地の模様を詳しく報告した。 しかし家老の山田八右衛門は、 「ああ、そうか」といったきりである。 二百数十年も、藩の貴族階級の位置に座り続けると、ついに... 1854.03.25土佐藩長州藩
土佐藩出立の準備 安政三年十月七日 竜馬の故郷滞在は意外にながびき、高知を発つ準備をし始めたのは晩秋になっていた。 城下を立つひと月前には、親戚縁者知人への挨拶回りに謀殺された。最後は福岡家だった。 福岡家のお田鶴様と竜馬の仲が怪しいと城下では評判になってい... 1856.10.07土佐藩竜馬がゆく
土佐藩容堂 入洛(じゅらく) 土佐の老公容堂が、いよいよ藩政の直接指揮をすることになり、京に入った。伊達な殿様なのだ。容堂の入洛を見た祇園の芸妓たちは、ー老公云々と世間でいうので、どんな爺ィかと思っていたら、いい男じゃないか。といったほどである。事実、容堂の入京の姿は、... 1863.01.25土佐藩竜馬がゆく