「将軍が大政を奉還する。京の朝廷はお受けとりになさる。それだけではなんともなるまい。」
と、竜馬は言った。
「なるほど」京の朝廷は、おおげさにいえば源平時代この方、政権というものを持ったことがないのである。途中、南北朝のころ、後醍醐天皇が一時的に政権を回復したことがあったが、それもいわばうたかたのように消えた。
そのあと足利氏が政権を取り、さらには織田・豊臣時代とつづき、江戸期に入った。
「天子は学問・歌道のみに専一のこと」というのが、家康が京都朝廷に課したもっとも手厳しい制約であった。(竜馬がゆく7 P409)
船中八策のいわれ
徳川幕府に大政奉還の進言をすすめていた薩摩・長州・土佐藩の
坂本龍馬は、江戸幕府がなくなった後の日本の仕組みも考えていて、土佐藩の船「夕顔」の中で、8つの議案を唱えて、平和的に新しい日本をつくる提案をします。これらの案は、後の人々によって、船の中で考えた8つの案という意味で「船中八策」とよばれるようになります。
この考えを土佐藩参政・後藤象二郎が、海援隊士の長岡謙吉とともに書きとめて、前土佐藩主の山内豊信(容堂)に進言。この「船中八策」が「五箇条の御誓文」の下敷きとされました。
その後、徳川家は大政奉還を受け入れることに。
慶応3年(1867年)10月、江戸幕府の15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、政治を行う権利を朝廷に返し、江戸幕府は終焉となったのです。
しかし船中八策のストーリーは、2010年代の文献調査により、明治以降に龍馬の伝記が編まれる際に創作されたという見解が有力となってきています。
一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
政権を朝廷に返還し、新たな法は朝廷より定められること(大政奉還)
今の徳川幕府や薩長土連合が政権ほしさにどんなにとりつくろうよりも一度、朝廷に主権を戻してリセットせんか?
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
上院・下院の二院制を敷き、議員を置き、全てを公的に議論して決定すること(議会開設)
イギリスがやっているような2段階の役所をつくって、それぞれの代表が腹を割って議論してすすめていけば
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
有能な公家や諸藩、無名の人材たちを政治に参加させ、名ばかりで実の無い者たちを取り除くこと(官制改革)
お公家さんでも庶民でも、人材になる者を参加させて、家柄だけで居座っている者は退席させるべき
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
外国との交流は、広く意見を求めることで、新しく規約を決めること(条約改正)
押し寄せてきている外国人に対しては、新しくまっとうな規約を作るべし
一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
昔からの法律の良いところをまとめ、永遠に伝わるような新しい法律を定めること(憲法制定)
古くさい法律も、いいとこがあればイマにあった解釈で新しくつくれば
一、海軍宜シク拡張スベキ事。
海軍を拡張すること
列強国と対峙するには、海軍を強化せねば
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
朝廷のための兵を置き、都を守らせること
都をしっかりと守るための専門兵を組織する
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
金や銀や通貨などの為替に関し、外国と平等に取引き出来る法を定めること
外国に流れている金銀の価値を、諸外国の物価と合わせないと!
誰が作った?船中八策
「夕顔丸」で長岡謙吉が書き留めたという船中八策の原本は見つかっていません。
「船中八策」は海援隊の隊員の一人長岡謙吉が「夕顔丸」に同乗していて、書き留めたとされていますが、長岡自筆の原本である書面は残っていません。
坂本龍馬は大政奉還後の慶応3年11月に「船中八策」と内容が共通している「新政府綱領八策」という新政権の構想を複数書き残していて、龍馬自筆のものが2枚現存しています。
元々のオリジナルは、上田藩士で軍学者でもある赤松小三郎の構想だという説があります。
信州出身の赤松小三郎は、幕末を動かす有力な人物でした。ある意味「龍馬を超えた男」との意見もあります。
坂本龍馬が提唱した「船中八策」や「新政府綱領八策」の原文では?と言われている「庶政一新に関する意見書」を提言し、越前藩主・松平春嶽や薩摩藩主・島津久光、さらには最近の研究によれば徳川幕府にも同様の意見書を提出しました。
赤松小三郎は明治になる何年も前に、維新後の明治政府の指針をすでに作り上げていましたが、日本史上では注目されることなく埋もれてしまっています。
慶応3年(1867年)9月、龍馬が暗殺される2カ月前に白昼の京都で龍馬と同様に暗殺されています。