徳川昭武パリ万博へ2

パリ万博開催

この年のパリ万博に徳川政府が展示した出品物は、
鎧兜(よろいかぶと)
絹製品(渋沢栄一の生家も絹農家で絹の目利きはまちがいなし)
大日本縮画
絵葉書サイズの風俗画(日本画の手法で当時の江戸の世相画)

など、多岐に渡りました

日本の展示物は、芸術性の高さで最優秀賞に選ばれました。
委員会や、新聞でも下記のように賞賛されました

日本は今日、西欧諸国と関係を築き
万博の展示によって
文明国の仲間入りを果たした

徳川昭武は、ナポレオン3世からグランプリのメダルを受賞し、パリ万博出展は(薩摩藩とのいざこざは別として)大成功を収めました。

万博直後、渋沢栄一らに手紙が

ちょうどその時、徳川慶喜・幕府から、大政奉還をしたという1通の手紙が届きます。いよいよ幕末動乱期に突入したことを知った渋沢栄一らは、しばらくパリに滞在することにしました。
しばらくすると江戸からの送金が途絶えることとなり、滞在費もままならなくなりました。

渋沢・デイトレーダーに

滞在費を稼ぐために、渋沢栄一は色々と取り組みます。例えば、
 鉄道債券を購入して運用
 預金を運用して資産増資に励む
 金融機関などから資金調達をする

日本にはない金融資本主義の西欧の仕組みを理解した渋沢栄一は、1次・2次・3次産業ではない「資金の運用」で金を生む仕組み、会社組織の発展のさせ方を勉強します。
豪農の生まれであきないの心得がある渋沢栄一だからこそ、見知らぬ土地での難局に耐えたのでしょう。
この当の渋沢栄一がメモ書きで覚えたフランス語には、
 節約する
 蓄える
 頭をを下げ礼を述べる

などがありました。

地球の裏側に徳川の血筋

ここから数年の日本は、鳥羽・伏見の戦いから始まる、どの藩が日本の主導権を握るか血で血を洗う戦いに突入しました。万が一敗北すれば「お家断絶」になりかねません。しかも江戸前の戦国時代の例にならうと、血縁者を皆殺しにされ「お家再建」の望みまで立たれてしまう状況になることも否定できません。

〝たまたま〟この時期にパリ万博があり
〝たまたま〟徳川家系の当主が代表で
〝たまたま〟戦乱に直接被害をこうむらない地球の裏側にきた
徳川昭武(13歳)は、どこまで〝たまたま〟だったのでしょうか?