パリ万博へ 徳川昭武、渋沢栄一らとともに

徳川幕府

日本国のヨーロッパデビュー

諸外国との交渉が多くなった幕末。

世界情勢のなかで日本の代表は徳川幕府だとアピールする機会がおとずれました。パリ万博です。
開催は1867年4月1日から10月31日。
パリ万博は諸外国が各国の代表する特産品や最新技術を展示する国際博覧会で、パリのど真ん中・現在ではエッフェル塔が立っている場所の広場で開催されました。

徳川幕府を代表して15代将軍徳川慶喜の弟・徳川昭武(13歳)を座長に藤原唯信、渋沢栄一ら一行がパリに到着したのは開催の1ヶ月を切る3月7日でした。

薩摩国として世界デビュー

徳川昭武一行がパリに到着したところ、もうすでに日本ブースには展示物が飾られていました。しかしその展示物は、予定になかった薩摩藩が手配した品々が3割以上も展示されていたのです!
これは薩摩藩が仕掛けた徳川幕府へのゆさぶりと、薩摩藩世界デビューの計画だったのです。
薩摩藩は、パリ万博を開催されることをイギリス留学生から情報を得ていました。

そこで、ある作戦をたてました。実質支配していた琉球国(現沖縄・当時独立国)と組んで「薩摩琉球国」として参加を計画。
「薩摩琉球国」と記した勲章も作って諸国と交流のきっかけを作ろうとしていました。(これは親善大使が国家元首などに勲章を授与する当時の風習にならっています)
パリ万博当時に薩摩からイギリス留学し日本近代化に貢献した若者をモチーフにした銅像「若き薩摩の群像」が現在鹿児島中央駅前のモニュメントになっています。

Gouvernement SATUMA /薩摩政府

薩摩藩の展示物は、撤去しろとまで言えないしどう扱かおうかと考えた徳川側は、薩摩側と話し合いを重ねました。薩摩側は、Gouvernement Satuma(薩摩藩)の提出物だと分けて明記すればいいという提案で展示することにしました。
直後、現地の新聞に、日本には薩摩政府と徳川政府の2種類の行政=国があるんだということが記事になって広まり徳川側は大失態となりました。

日本国内ではGouvernement は「藩」の意味合いで諸外国に説明していましたが、世界一般の常識では「政府」と捉えられています。
「世界が認めた薩摩政府」ということで世界中にアピールが成功した薩摩藩は、いよいよ徳川倒幕へ大きく舵を切るのでした。