グラバー夫人

幕末の女性

屋敷は洋風平屋で、屋根だけが黒瓦をおいた日本風である。グラバー自身の設計で日本人の大工がこしらえたのだという。
三人は応接室に通された。八畳ほどのひろさで、窓ガラスを通して湾内の灯がみえる。
やがてグラバー夫人のお鶴が、みずから酒と料理をはこんできた。使用人をつかわないのは秘密の客だからであろう。お鶴がグラバーのことを長崎弁で
「オトシャマ(お父さま)」
とよんでいるのが、三人にはおかしかった。

竜馬がゆく6 P146

グラバー・ツル(淡路屋 鶴)

お鶴とグラバーとの出会いは五代友厚に紹介されたという説があります(出典根拠は不詳)。
嘉永3年(1851年/1848年生まれ説もあり)大阪の造船屋「淡路屋」に生まれ、豊後竹田(現大分県竹田市)の岡藩士・山村国太郎と結婚。娘・センをもうけるも離縁し、芸者となりました。
このあと、いつ頃トーマス・ブレーク・グラバーと結ばれたかは不明ですが、戸籍によるとグラバーの長女ハナを明治9年(1876年)出産。
グラバーの長男・明治3年生まれの倉場富三郎の母は加賀マキとする説があります。(倉場はグラバーのもじり)
お鶴とグラバーが共に暮らしていたのはグラバー商会が倒産した明治3年(1870年)頃(グラバー33歳、ツル19/22歳)以降ともいわれています。

当時の芸者がよく使っていた「揚羽蝶」の女紋の着物を着ていました。その蝶々の家紋から「お蝶夫人=グラバーツル」説が浮上しました。

グラバーツルと揚羽蝶

グラバー夫人=蝶々夫人説は?

ジャコモ・ブッチーニ作オペラ「マダムバタフライ(蝶々夫人)」は、長崎の武士の出身で蝶々の入った着物を好んできた女性が登場します。
小説『マダム・バタフライ』の原作者ジョン・ルーサー・ロングは、来日の経験がなく、宣教師の妻として長崎にいた姉からの話をもとにして設定を作ったと推測されています。
また、『蝶々夫人を探して』の著者B・バークガフニ氏は「グラバー・ツル」モデル説を否定し、旧グラバー住宅とオペラ蝶々夫人の関連は、同住宅がアメリカ進駐軍に接収されていた時に初めて言われるようになったと指摘。

グラバー亭は、第二次大戦後の1945年(昭和20年)9月、アメリカの進駐軍に接収され軍関係者の住宅としていました。ゴールズビー大佐とその妻のバーバラがも、一時期グラバー邸に住むことになりました。バーバラはグラバー邸の雰囲気を見て、オペラ「マダムバタフライ」のヒロインの家に住んでいるようだと感じ、グラバー邸に「マダム・バタフライ・ハウス」をいう愛称をつけました。
これを当時の新聞社の記者が「お蝶夫人の邸跡発見」として記事を書いたことでさらにこの話題は広がりました。(グラバーガーデンサイトより)