初の純国産実用蒸気船、凌風丸
日本で建造された最初の実用蒸気船、凌風丸(りょうふうまる)は、幕末に佐賀藩が建造しました。
長崎海軍伝習所で1858年(安政5年)頃からカッター型帆船「晨風丸」の竣工や、蒸気機関の「電流丸」の交換用のボイラーや幕府船用のボイラーの製造などで経験を積んだ技師たちが1863年4月(文久3年3月)、佐野常民や中牟田倉之助らを責任者として蒸気船の起工します。
からくり儀右衛門として知られた田中久重らにより1865年(慶応1年)についに竣工、「凌風丸」と命名されました。
就役後、1865年3月29日(慶応1年3月1日)には、藩主が乗船して諫早湾の航海を行い、その後も有明海での要人輸送などに使用されました。1870年6月(明治3年5月)、有明海の竹崎鼻付近で座礁して廃船となりました。
凌風丸の名は、現在は気象庁地球環境・海洋部が管理する海洋気象観測船に命名されていて、2012年より3代目が就航しました。
2020年7月から西之島の噴火を観測しました。
からくり儀右衛門
幕末の発明王・からくり儀右衛門(田中久重/たなか ひさしげ)は九州久留米のべっ甲細工屋の長男として生まれます。手先の器用さと発明に長けていて、寺小屋の手グセの悪い友人から硯箱の中身を盗まれないように、箱細工を作り自分以外には開くことができない細工をするのもあさめし前。15歳の時には、地元の名物「久留米かすり」に簡単に精密模様をつける発明をしましたが、近所の織物屋にタダで教えて喜んでいました。
16歳の時に小野小町が雨の滴る傘をさす水力機構を利用したからくり人形を開発します。
あまりに発明力がすごすぎる儀右衛門でしたが、当時は変な発明をする男ぐらいの扱いで才能の使いどころがなく、お金を稼ぐのも、このからくり人形を見世物にするぐらいしかできませんでした。

からくり儀右衛門の代表作の一つに「弓曳童子(ゆみひきどうじ)」と呼ばれるカラクリ人形があります。
子供が弓に矢をつがえ、次々と射ていくのですが、単に矢を飛ばすだけでなく、狙いを定めるなど仕草もリアルで、それがちゃんと的に当たるという精巧さ。
これが糸やゼンマイだけで動いているというのですから、その発想力には舌を巻くばかり。
しかし、用意されている4本の矢のうち一発だけは必ず射損じてしまいます。せっかくなら百発百中の方がいいでしょうに、これはどうしたことでしょうか。
これは、儀右衛門がそのように細工したのだという説が有名です。
射る矢すべてが必ず的中する仕組みは、すぐに飽きてしまう。たまに失敗する『リアル』だから、感情移入ができる。そしてからくりに『リアル』を設定できるほど儀右衛門の技術力は高かったのです。
鎖国をしていた江戸時代でも海外の技術は頻繁に入っていましたが、石油や石炭をエネルギーに変える最新技術で突如現れたのが蒸気を動力にするクロフネです。
佐賀藩藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)蒸気機関のしくみをなんとか国産で作れないかと考えていてところ「とんでもなくトンチの効いた発明をする男がいる」という噂から大抜擢されたのがからくり儀右衛門でした。
蒸気機関を使った蒸気船を国産開発するように命令したところ、儀右衛門は安政2年(1855年)にほスクリュー式と水車式の本格的蒸気船の雛型を完成させます。この技術を基に、国産蒸気船凌風丸が建設されました。
儀右衛門はその後も、1851年(嘉永4年)に万年時計〔万年自鳴鐘〕、1863年(文久3年)に最新大砲・アームストロング砲の作成など工夫を加えた国産品を次々と生産します。
明治になり東芝のいしずえを創業
明治維新の新政府が、「通信用の電信機を作ってくれないか」と東京に呼び寄たのが七十三歳になった儀右衛門でした。「文明開化の中心地で自らの技術を日本に、世界に問える」と意気揚々と東京に向かいます。
明治8年(1875年)7月11日、現在の東京・銀座8丁目にあたらしい工場兼店舗「田中製造所」をスタート。店の傍らには「万般の機械考案の依頼に応ず」との看板が掲げられたといいます。
このときをもって東芝の創業となります。それから日本を代表する機械メーカーに育っていくのでした。