第一次長州征討

元治元年師走も押しつまってから、長州へ侵入していた中島作太郎が帰ってきた。反物の行商人に身をやつしている。
「どうだった長州は」竜馬は待ちかねたようにきいた。
「灰神楽が舞い立っておりますな」と、この数えで十九歳の志士は答えた。
(これは聴けん。風呂にでも入れてめしを食わせ、気が静まってから喋らさねばなるまい)

中島作太郎が竜馬に報告した長州の事情はほぼ想像していた通りであった。
禁門の変の政治犯人として三家老を切腹せしめただけでなく、幕府の機嫌をとるために前田孫右衛門ら七人の勤王派をとらえ、野山の牢獄にほうりこみ、その翌日、大根でも切るように首をはねてしまったという。きのうまで時めいていた長州勤王派の大物たちが、今日は賊名を着てしかばねを刑場にさらされている。
「むざんなものだな」
竜馬は左手をふところに入れ、右手でしきりと顔をこすった。そうでもしなければ、こみあげてくる義憤にたえられない。

竜馬がゆく5 P418

元治元年11月11日長州藩・幕府に降伏

幕府軍の威厳をかけて

1864年7月に御所を襲った(禁門の変)の主犯である長州藩への幕府による報復攻撃。徳川幕府を脅かす長州の力を削ぐことで、揺らいでいた幕府の安定を取り戻す目的も。

薩摩藩・西郷隆盛の根回し

元治元年(1864年)10月24日大坂。西郷隆盛は総督・徳川慶勝へ長州藩を降伏させる腹案を述べると、慶勝は信認の証として、その場で西郷へ脇差一刀を与える。西郷は征長軍全権を委任された参謀格となる。

坂本龍馬によって作成されたとされる長州征討の図。

西郷隆盛の提案とは

「戦争は、諸藩の人々と財政に大きな負担を強いる。いま、欧米諸国の脅威が目の前にある中で、日本国内での無駄な浪費は避けるべきだ。」という考えは、政府軍の勝海舟らと共通認識でした。
そこで西郷は徳川軍に、長州藩へ次の条件を受け入れることで幕府軍との争いを避けることを提案しました

  • 禁門の変の責任者の処分
  • 八月十八日の変でかくまっている5公卿を手放す(他藩へ移す)
  • 山口城を破棄
  • 長州藩主は父子ともに謝罪文をだす

長州藩 西郷の提案を受け入れ

幕末の初めから攘夷を強く推していた長州藩でしたが、この元治元年(1864年)池田屋事変、禁門の変から四国艦隊下関砲撃事件と続いた挫折・敗戦で、長州藩内は「正義派(諸外国と戦うため幕府を倒し富国強兵をすすめる)」「俗論派(尊王攘夷は失敗に終わったので幕府に従う)」の2つの派閥の対立が深まっていきます。

四国艦隊下関砲撃事件で欧米諸国の脅威を目の当たりにした長州藩では、俗論派の意見が優勢となり、幕府への歩み寄りの声が大きくなってきました。

12月27日幕府は撤兵令を出し、遠征軍を解兵。第一次長州戦争は一度も交戦せずに終わりました。

元治元年の長州藩の誤算まとめ

前年(文久三年/1863年)長州藩主流派の考えは、徹底して攘夷(諸外国を追い払う)をすすめようとしていました。
(一方で徳川幕府は外国相手に貿易の独占をすすめます。)
そこで長州藩は、天皇から攘夷しても構わないというお達しを出させて、諸外国と戦う根回し交渉を続けていました。

しかし、いざ攘夷(諸外国を追い払う)を発する直前に天皇がお達しを取りやめ。八月十八日の変が起こります。

そして年が変わった元治元年(1864年)の長州は、なにもかもうまくいかなくなります。
6月に池田屋で、京都で活動していた仲間や京都での支援者をいっせいに検挙されて活動の足場を大きく失うことに。(池田屋騒動/6月5日)

皇族や公家の人々に今一度考え直すよう、長州から隊を組んで京に押しかけたところ、徳川慶喜を旗頭にした政府軍に一網打尽にされてしまいます。(蛤御門の変/7月19日)
ここには、京を守る会津藩・桑名藩から、徳川御三家の水戸・尾張・紀伊ならびに親藩だけでなく、外様の薩摩藩・土佐藩・久留米藩まで加わっていました。

同時期にお国元の長州では、昨年5月に無差別攻撃をしていた欧米各国が(下関砲撃事件)仕返しにやってきて長州藩の海の守りの砲台を撃破。
さらに、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの艦隊からフルボッコにされて多額の賠償を要求してきました。(馬関戦争四国艦隊下関砲撃事件/8月5日)

四国艦隊の攻撃はわずか四日で終了。長州藩は壊滅的な被害を受けることになります。この後講和が行われ、諸外国と長州藩の間で次の条件で手が打たれました。

  • 講和の条件
  • 1 下関の外国船通航を認めること
  • 2 外国船の要求があったら水とか食料をちゃんと売ること
  • 3 船が遭難した時に下関に着港することを許可すること
  • 4 下関の砲台を全て撤去すること
  • 5 300万ドルの賠償金を払うこと

京で培っていた天皇家とのつながりを失い
幕府をはじめとするほとんどの藩から京を追い出され
長州藩内でも諸外国の攻撃にさらされる

西郷隆盛からの無条件降伏の提案は、長州藩を残すただ一つの方法だったかもしれません