門付け・軒付け

江戸落語の世界(芸能・娯楽)
門つけ芸人

「なんだえ、あれは」
と通行人が目を見張って竜馬らをみてゆく。先頭をゆく竜馬は、左手をふところ手。それが鼻歌でカンカン踊りの文句を歌ってゆく。
 うしろのおりょうが、まさか月琴を伴奏してゆくわけではないが、とにもかくにも月琴を抱えているために、一見、鳴り物入りのようにみえるのである。

「モシな、ご浪人さん」とひとりの妓が竜馬を呼び止めた。
「なんじゃい、こちは長崎仕込みのカンカン踊りじゃ。門付でもせいというのか」

竜馬がゆく5 P248

門付け

江戸時代の大道芸の一種で、芸人が商店や大きな家に直接訪れて、芸を披露してご祝儀をもらう。
季節に応じて神が祝福をもって訪れるという民俗信仰に基づき,その神さまを演じる祝言人(ほがいびと)が家々を訪ねてくる風習から由来する芸能。

江戸時代には万歳(まんざい),鳥追,夷(えびす)舞,大黒舞,獅子舞,ちょろけん,猿回し,厄払い,節季候(せきぞろ)などがあった。また女太夫,傀儡(くぐつ),説経,祭文(さいもん),住吉踊,流しなどは季節に関係なく訪れる芸があった。

仏教の門付け

「門付け」は、陰陽師に源流を持つ声聞師(しょうもじ)が、各家の門前で読経や曲舞(くせまい)を行うことで金銭を得た慣習。釈尊の弟子たちは、街を巡る頭陀行(ずだぎょう)を行い、いわゆる鎌倉新仏教の多くの祖師は、辻説法で教えを説いていた歴史を持つ。

軒付け 落語

主に素人が、自分の稽古と度胸試しの意味で路上で芸を見せる。
現在の売り出し前のミュージシャンの路上ライブのような事をしていました。

<落語・軒付け>あらすじ
 浄瑠璃に凝(こ)った男が友達の所へ遊びに行く。どれ位、腕を上げたのかと聞かれ、忠臣蔵の「五段目」だけで浄瑠璃の会に出て、すっかり上がってしまってしくじった話をする。
友達は会へ出るにはもっと修行を積んでからと、人家の軒下に立って浄瑠璃を語る軒付けに連れて行ってもらえという。うまく行くと浄瑠璃の好きな家で「ウナギの茶漬け」をご馳走してくれるかも知れないと聞くと、男は早速、友達の紹介で軒付けの仲間に入るが・・・

上方の落語。橘ノ圓都が得意としていたのを、戦後、三代目桂米朝に伝わり、さらに二代目桂枝雀、桂文珍などによって演じられるようになった。

落語の演題「軒付け」は、桂米朝の説明では「大道芸人の門づけとはまたちがって、浄瑠璃の軒づけをやって修行する」(『米朝落語全集・第四巻』より)とあり、アマチュアが技芸の鍛錬のために行うもので、1890年代まで京阪地方で行われていたとされている。噺の冒頭部でも軒付けに行けと勧められた男が「・・・そんな、乞食みたいなことできまっかいな。」と答えて、「そら、何言うねん。乞食とちゃうで、金とらんと浄瑠璃聴かすんやで。」と窘められるくだりがある。だが、実際にはそれを口実に金銭を乞う行為も行われており、1842(天保13)年6月27日の大坂町奉行から禁止の触書を出し、翌年の触書にも「寒声寒弾」(寒げいこの意)の名目で女性まで加わるのは風紀上好ましくないとあり、官憲の再三の取り締まりにもかかわらず大阪市民が盛んに行っていたことがうかがわれます。