蛤御門の変2

江戸時代の常識・風習

幕軍の総指揮官一橋慶喜は、鷹司邸の長州人が死にものぐるいになって抵抗するのをおそれ、先述の常識に従って、
「鷹司邸を焼きはらえ」と命じた。
そこで、合図、桑名、一橋の兵が、手に手に松明を持って邸内に投げ入れたため、またたく間に邸は一団の炎となった。
さらに河原町三条上ル東側の長州藩邸も幕軍の手で焼かれた。
この二ヶ所からあがった火はまたたくまに京都全市に燃えひろがり。三日間燃え続けて、灰になった町の数は。八百二十一町。
家数は、二万七千五百十三軒。
焼け落ちた橋が四十一、寺社二百五十三、宮門跡三軒、堂上方十八件というおそるべき数字になった。

竜馬がゆく5 P192

どんどん焼け

翌日7月20日になっても京都市中の火災は広まっていました。
京都市中の社寺・公家屋敷・武家屋敷など広まり、市街地のほぼ半分が消失する事態になりました。
手の施しようもなく見る間にどんどん焼け広がったさまから京の町民は「どんどん焼け」の名で語り残しました。また市街戦で鉄砲の音が鳴り響いたことから「鉄砲焼け」の名もついています。

京都市内の牢獄「六角獄舎」では、禁門の変の際に生じた火災を口実に
攘夷派志士の『平野国臣』や、池田屋事件の折に捕縛されていた『古高俊太郎』天誅組の変の水郡善之祐(河内勢)、乾十郎(十津川勢)など囚人33人を斬罪に処してしまいます。
この件は新選組の仕業と疑われることとなります。

六角獄舎
平安時代に建設された左獄・右獄を前身とする京都の牢獄。宝永の大火(1708年)で現在の中京区六角通神泉苑西入南側に移転されました。

wikipediaより

残念さん

幕府は京の町民のために米を払い下げて配給しましたが町民には十分な量はなくて不満の原因になってしまいます。
大火の原因を作った長州藩に対しては恨む声よりも同情する声が強まる結果に。(もともと京の町民は長州びいきであったことも要因かも)

京都から逃走中に、尼崎藩内でも一人の長州兵が捕らえられ牢に入れられます。しかし取り調べの最中に「残念、残念」と言って牢内で自害。
この長州藩士山本文之助は 残念さん として祀られ畿内から参詣人が相次ぐ名所となります。
いまも残念さんの墓に参ると、「1つだけ願いを叶えてくれる」と言われ、歯痛も治ると言われています。また他の病気や、入学試験にもご利益があるとされています。
所在地
尼崎市杭瀬南新町4丁目9-13杭瀬東墓地内

幕府はこうした長州同情論を抑制すべく長州藩の罪状を記した制札を建てて長州藩を批判するとともに市民の長州藩への協力を禁止。後にこの制札が三条制札事件の要因となりました。