加賀百万石

江戸時代の常識・風習

諸藩では、軍艦、汽船、風帆船を外国から買い入れることがはやっている。
ところが、買い入れても自藩では動かせない。どの藩でも、古来、御船奉行、御船方という世襲役人がいるが、和船の能力しかなく、この方面の技術者不足で弱っていた。
「加賀百万石といっても汽船ひとつあやちれない人間が、攘夷云々と駈けまわったところで、どうなるもんでもないよ」
勝の議論はついそこにいく。

「〜攘夷のための軍艦が動かせ、大砲が撃てるというのは、竜さんえ、あんたのほかにだれもいないよ」
「これは恐縮ですな」
「いやお前さんを褒めてるんじゃねえ。お前さんを仕込んだおれ自身を自画自賛しているんだよ。頼むよ、竜さん」

竜馬がゆく5 P132

加賀百万石

歴代の加賀藩主は、幕府の警戒を和らげるため文化事業に強い関心を寄せました。工芸発展の礎は「御細工所(おさいくしょ)」の設置や、京などから招かれた「御用職人」の活躍によって固められ、蒔絵 や象嵌(ぞうがん)など加賀藩独特の世界観を確立しました。
 当時は武家の嗜みとして茶の湯がさかんであったことから、美術工芸品の名品を数多く収集したことも大きな影響を与えました。能楽も手厚く保護し、綱紀が金春流から宝生流に切り替えるとさらに盛んになりました。武家階級だけでなく植木職人や瓦ぶき職人にも親しまれて、「空から謡(うたい)が降ってくる」とまで言われたほどです。これらの文化や伝統工芸は今も脈々と受け継がれて
います。

幕末の加賀藩

新政府か徳川家かといった「日和見」的な二択の発想ではなく、朝廷尊崇の貫徹と徳川家支援の挫折としてまずは理解されるべきであり、二択の発想は藩のなかで構築された論理ではなく、新政府が意図的に創出したものである

加賀藩の明治維新 有志者、宮下和幸著 P,359より抜粋引用

「もともと、前田家では代々朝廷を崇(あが)める「尊王」が絶対的藩是(はんぜ)(憲法)であり、徳川政権が朝廷から征夷大将軍として権威を付与された現実にもとづいて、270年間幕藩体制に忠実に従ってきたので、単なる日和見ではない」
徳川家と血縁関係を結び、幕府から多くの禄をもらう加賀藩。
一方で外様大名のため、常に幕府から警戒をされていた加賀藩だからこそ、幕末の騒動に対しても、どちらかの味方という立場を表さなかったといえます。

加賀の婚礼目録

江戸文化の粋 加賀藩

薩長のように江戸から離れた藩は思い切った政策を立てましたが、江戸・京に挟まれた立地の加賀藩は、ウカツな行動がとれません。
加賀藩では幕府に楯突く行動はしませんよ、という意思表示も兼ねて、文化事業に強い関心を寄せました。

工芸発展の礎は「御細工 所(おさいくしょ)」の設置や、京などから招かれた「御用職人」の活躍によって固められ、蒔絵 や象嵌(ぞうがん)など加賀藩独特の世界観を確立しました。
 当時は武家の嗜みとして茶の湯がさかんであったことから、美術工芸品の名品を数多く収集したことも大きな影響を与えました。能楽も手厚く保護し、五代前田綱紀が金春流(こんぱるりゅう)から宝生流(ほうしょうりゅう)に切り替えるとさらに盛んになりました。
(加賀藩 金沢・富山エリアガイドより抜粋)

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