以蔵捕まる

藩の上層部は「以蔵が幕吏につかまった」
と聞いたとき、手を于ってよろこび、「武市一派を白状させる生き証人を得た。ぜひとも身柄をとらえて国もとに送れ」ということになったのである。
駕籠にほうりこまれた以蔵は、狂わんばかりにしてどなった。
「わしは無宿鉄蔵じゃ。土佐藩とは何の関係も無いぞ」

竜馬がゆく4P238

武市と仲違いした以蔵

暗殺集団が暗躍する京の町で、文久三年(1863年)から「新撰組」らを使って、取り締まりを本格化させます。
武市と仲違いした岡田以蔵は勤王党を出奔。同じ頃、勤王党の関係者も次々と捕まり、勢いが失われていきます。

元治元年(1864年)2月、商家への押し借りの科で犯罪者として幕吏に捕えられた岡田以蔵は、5月に焼印・入墨のうえ京洛追放処分となり、同時に土佐藩吏に捕われ土佐へ搬送されることに。
武市率いる土佐勤王党の情報を吐くように拷問を受けて、以蔵は次々と白状していきます。慌てた武市らは、以蔵を殺害しようと計画したが、以蔵の実家から賛同を得られずに断念。(毒入り弁当は司馬遼太郎の創作)
慶応元年(1865年)閏5月11日に打ち首獄門となります。享年28。

岡田以蔵は貧しい無学の剣豪はうそ

貧しい生まれで坂本龍馬や武市半平太らとは違って「貧しい岡田以蔵」というイメージがありますが、これは後世の小説などの創作で色付けされた可能性が大きくあります。
実際の岡田以蔵は裕福な農家の家柄を始祖としていて、特別に貧しくはありません。父の方針で漢学者を師事したことがわかっているので、少なくとも一般の郷士と同等の教育機会に恵まれていました。
 (幕末通説のウソ 2019年3月22日発行)