圓朝 江戸のトップ噺家に

江戸落語の世界(芸能・娯楽)

竜馬は、房州二州にはいない。この時期、竜馬は長崎にあり、熊本にあり、大坂にあり、神戸村にあり、京都にあり、さらに江戸へも旅立つ。元治元年正月から初夏にかけてのかれの行動は、所在転々としている。

竜馬がゆく5 P26

三遊亭圓朝

初代橘家 圓太郎の子として生まれ、7歳の時に初高座。
二代目 三遊亭圓生に入門して10歳で二つ目に。
しばらく落語の世界から離れて、玄冶店の一勇斎「歌川国芳」の内弟子となり、絵師や画商の奉公をします。
数年ののち、落語の世界に戻ってきて再び圓生の元で修行。
安政2年(1855年)17歳の時に真打となります。

当時の真打とは、公演プログラムの最後の出演者に値する芸人のこと。
真打と呼ばれるには人気と実力を備えており、「この人を観るために多くの人が集まる」と席亭(寄席の社長)が認めた人のことです。
共演者やそれぞれの配当ギャラまで真打が決めるほどの決定権があります。
落語家に入門しても真打になれない芸人もざらにいたといわれています。

安政(1855年)の頃から10年ほどの江戸落語は、「三遊亭圓生の芝居噺」「林家正蔵の怪談話」「金原亭 馬生の道具入り」「古今亭志ん生の人情話」などが流行中で、扇子一本の素噺よりも、派手な演出を入れた落語が大流行していました。

新作落語の圓朝

そこで当時17歳の圓朝は、派手な着物をまとって、歌舞伎役者の声真似を盛り込んだ芝居噺を演出して、若い女性に大人気となっていきました。
若くて人気者になった圓朝をやっかんだ師匠の圓生は、圓朝の先に舞台に上がって、圓朝が当日に演じる予定の落語を先に離すなどの嫌がらせをするように。
そこで圓朝は、師匠や他の噺家がマネできないように、新作落語を次々と上演。さらに人気となりました。そのひとつが三題噺です。

三題噺が流行

文久元年(1861年)頃から三題噺が流行します。
これは、お客様からお題を3つもらって、短期間にひとつの落語として作りあげます。なかでも狂言作者の2世河竹新七(のちの河竹黙阿弥),戯作者の仮名垣魯文,初代三遊亭円朝らが加わった〈粋狂連〉は名高く,今日に伝わる作品を残しています。
演者がどうやってひとつの話にまとめるかといった機転やライブ感が魅力となりました。

文久3年のある席に招かれた圓朝は「春雨・恋病・山椒の擂粉木」で参加しましたが『紹介するほどの出来でもなかった(落語の年輪・暉峻 康隆)』とあります。

鰍沢(かじかざわ)

鰍沢(かじかざわ)
「鉄砲・卵酒・毒消しの護符(熊の膏薬)」で作った噺。
冬の身延山にお礼参りに訪れた男は大雪にあう。たどり着いた民家にいたのは元花魁のお熊。一夜の宿を勧めたお熊は、この男が大金を持ち自分の素性を知っていたことに驚く。いっそ殺してしまおうと卵酒に毒を持って飲ますことに…

鰍沢で、男がお参りに来た身延山(久遠寺)

文久三年10月の粋狂蓮の会の予告チラシに「玉子酒、筏、熊の膏薬 河竹」という項目があり、「鰍沢」が圓朝でなく河竹黙阿弥の作ではないかとする説もあります。

両国垢離場

改元して元治元年(1864年)。
当時の寄席のトップクラスである「両国垢離場(こりば)」から昼席の真打に抜擢されます。弱冠26歳
慶応3年まで実に4年の間、ここでの真打を取り続けました。
池田屋事件から、大政奉還までの日本が大変革する時期に、新作落語の雄・三遊亭圓朝は江戸落語のトップを疾っていたのでした。

参考:落語 江戸から近代へ/幕末落語史 興津要 著

芝居噺の圓朝

幕末の江戸の寄席では、歌舞伎芝居を模した「芝居噺」が盛んに演じられていて、明治新政府になってから禁令が発せられてもなかなか守れなかったほど人気でした。
三遊亭圓朝は、幕末期に売り出しの真打として、大道具・鳴物・衣装引抜き(早着替え)などを多用する芝居噺を盛んに演じていました。平成・令和の落語の舞台ではあまり演じない大掛かりな手法の演出です。
その演出は、弟子の三遊亭一朝を経て、昭和の八代目林家正蔵(彦六の正蔵)まで伝えられていました。

扇子一本舌一枚、圓朝・明治に大転換

幕末維新という時代の大転換機を超えて、明治に入りました。
時代の優勢を見通したかのように圓朝は、自身の落語スタンスを大転換します。
明治初年にいち早く芝居噺を離れて、扇子一本舌一枚の素噺に転じました。自身の人気の元となった芝居噺の大道具・鳴物・衣装引抜き(早着替え)を全てやめて、現在の落語のような話芸だけで勝負に出たのです。
明治5年 弟子の初代三遊亭圓楽に師匠であり、三遊亭の大名席、圓生(三代目)を継がせます。その時に自身が持っていた大道具一式を全て譲って、芝居噺で大トリを取らせました。
これ以降は、素噺で今でも残る新作を作り出しています。