灘五郷・嘉納家の上納金

徳川幕府

江戸城消失に嘉納家、1100両を上納

文久三年(1863年)11月13日、江戸城本丸、二の丸、西の丸が焼失する。二の丸・西の丸は再建されるが、本丸御前は再建されないままとなった。

(幕末維新史年表より)

江戸後期、下り酒で大きな利益を上げた灘の酒造業。人呼んで灘五郷。
材木業を営んでいた嘉納家は、1660年(万治元年)ごろに酒造業を始めました。
本家・嘉納治郎右衛門が継いだ「本嘉納家」と先代が末子とともに起こし、代々嘉納治兵衛を名乗る「白嘉納家」両家はそれぞれ灘で酒造りを始めます。
江戸末期(1840年)に灘(西宮)で日本酒造りに最適な湧き水「宮水」を発見して灘の一帯は優良な日本酒生産産地となります。
一方で幕末には、物価の高騰や物不足、政情不安に耐えられず撤退する中小の酒問屋が多数ありましたが、白嘉納家は堅実な商売をしたおかげで順調な酒造りの元、販売シェアを増やしていきました。
名の通った酒蔵・大問屋となれば、為政者からの期待や要望が高まり、幕府からは折々にふれ上納金を要求されます。
黒船来航に伴う沿岸警備費用に 1,000両
江戸のかなめ、台場の建築費に 900両
江戸城本丸の延焼した際には  1,100両
第二次長州征伐の遠征費に   3,000両

こうして嘉納家は、幕末の江戸幕府を下支えしていました。

上納金を支払うだけでなくもう一方で、政府とともに新たな商売も計画しています。
幕府主導で修交条約締結後に兵庫・神戸あたりに開港を予定。新たな貿易港の窓口となるため外国に対して西洋風カンパニー(商社)設立を計画。
白嘉納家はここにも出資して5代目嘉納治兵衛が世話役に就任していましたが、しかし計画途中で幕府が倒れ、白紙となってしまいます。
明治期以降「本嘉納家」は菊正宗酒造、「白嘉納家」は白鶴酒造となり日本酒のパイオニアとして続いています。

豪商たちがつくった幕末維新 より抜粋

日本酒の温度一覧

温度呼び方お酒の状態
55℃以上飛び切り燗徳利が熱い
50℃熱燗徳利から湯気が立つ
45℃上燗注ぐと湯気が立つ
40℃ぬる燗体温よりやや高く感じる
35℃ひと肌燗体温と同じ
30℃日向燗(ひなたかん)ひだまりのほっとする温もり
ひや常温。室内で保管していたそのままの温度で提供する
15℃涼冷え冷蔵庫からだしてしばらくの温度。淡麗タイプにおすすめ
10℃花冷え冷蔵庫保存の温度。生酒やにごり酒
5℃雪冷え氷水で冷やす温度。スパークリングタイプなど

温度が高くなると、香りやアルコールが強調されます。旨味もボリューミーに感じられます。
冷やして飲むと、香りは立ちにくいですが、アルコールのアタックが弱まり飲みやすくなります。旨味もさっぱりと感じられるので夏の料理とも相性が良くなります。