新撰組と遇う 藤堂平助

制服の羽織を着用している。浅黄地のそでにだんだらを染めぬいたもので、ちょっと芝居の赤穂浪士の討ち入りの服装に似ている。
(ははあ、これがいま洛中に有名な新撰組の壮士団か)
と思ううち、隊が竜馬の前にとまった。
一人が、提灯を竜馬の顔あたりまでもってきた。
提灯には、山型に誠という文字が入っている。その男が、声をかけた。
「当方は、京都守護職松平中将様御支配新撰組でござる。市中見廻り中、役儀によっておたずね申したい。お手前、何藩で、御姓名は。しかして、いずれへ参られる」

そのとき背後から、組頭の藤堂平助がはじめて進み出た。
「諸君、ひきたまえ」

竜馬がゆく4 P69

京都到着から新撰組まで

文久3年2月8日 清河八郎の献策で浪士組を結成。江戸を出発。
文久3年2月23日 京都に到着。
文久3年3月12日 会津藩預かりになり、壬生浪士組と名乗る。
文久3年8月18日 八月十八日の政変。御所の警備に出動。
文久3年9月18日 芹沢鴨、平山五郎が内部抗争で粛清される。
文久3年9月25日 隊名を新選組と改める。
文久3年9月26日 御倉伊勢武、荒木田左馬之助、楠小十郎が長州藩の間者として粛清される。

藤堂平助

天保15年(1844年)生まれで、龍馬より8〜9歳下。
千葉周作の道場玄武館(神田於玉ヶ池)の門弟となり、北辰一刀流目録(中目録免許とみられる)を十代半ばで取得。道場は違えど、
その後、近藤勇の道場試衛館に入門し、すぐに代稽古などを任されるほどの実力者だった。その縁で、一緒に京に出て、、壬生浪士組となります。
新選組結成以前からの生え抜きの同志であり、斎藤一とともに最年少幹部の一人。在隊中は、年少者ながら「副長助勤」「八番隊組長」等の重要な役職を歴任していました。

島津家家臣による『京師騒動見聞雑記録』には「壬生浪士の藤堂平助は、藤堂和泉守の妾腹の末子と噂されており非常に美男子である。今年十七歳」という記述があります。
また新選組隊士の証言によると、「小兵」だったようで、当時の成人男性の平均身長に満たないくらいの身長だったことが予想されます。
新撰組ながら、龍馬と同じ玄武館一門の藤堂平助。のちに龍馬に助言をしますが・・・。