芹沢鴨 粛清

浪人浮浪雲

「帰った?あの壬生浪」
と、お登勢が入ってきた。

みぶろというのは、新撰組結成の初期、京の市中のひとがきらってつけた異名である。洛西壬生村に屯所をもつ壬生浪人、というところから出たものであろう。

竜馬がゆく4 P115

芹沢鴨(せりざわかも)

芹沢鴨は、幕末の水戸藩浪士、壬生浪士(新選組)の初代筆頭局長(頭取)

芹沢鴨の生誕は詳しいことがわかっていませんが、水戸藩士の芹沢家も関わりや出身説や、芹沢村にに定着した豪族の血筋であるなど諸説あります。
生まれ育った水戸藩は尊王攘夷思想の影響を大きく受け土地柄で、水戸学を学びます。
剣術では、神道無念流の達人と言われるほどの腕前になりました。

文久3年(1863年)清川八郎が提唱した「浪士組・隊士募集」に参加し、徳川家茂のx護衛として京に上ります。ここで清川八郎は、浪士組を真の尊王攘夷の先鋒とするため、朝廷に上奏文を提出して、浪士組を朝廷の直属にすることに成功します。しかしここで清川と別れ、近藤勇らと壬生浪士組を結成し、壬生浪士組初代局長となります。

3月10日、芹沢・近藤ら17人(24人ともいう)の連名で会津藩に嘆願書を提出。会津藩は彼らを「御預かり」とすることを決定。京都の治安維持を受け持つこととなりました。

壬生浪士組の活動資金を集める名目で、商人から力ずくで金を出させたり、はては大坂の商人・大和屋庄兵衛宅に押し掛け火を放った事件など、悪行が過ぎるようになります。

芹沢鴨の暗殺
京都の治安を見る新撰組が治安を乱していることに危険を感じた京都守護職・松平容保から、近藤勇に芹沢鴨の暗殺命令が出たと言われています。
指示を受けた近藤勇は、土方歳三・沖田総司ら腕の立つ者を集めて壬生屯所で寝ていた芹沢鴨を暗殺しました。
芹沢鴨を排除したことで、新撰組と生まれ変わり尊王攘夷派を取り締まる組織としてまとまったと言われています。

幕末維新人物大辞典

芹沢鴨の鉄扇

「尽忠報国」と刻まれた鉄線を持ち歩いていた芹沢鴨。「忠義を尽くして国の恩に報いる」まさに尊王攘夷の思想を書いた鉄扇を持ち歩いていました。

鉄扇は、上司の家に上がる場合や帯刀が許されない場所に入る時に護身用に携帯した扇子です。
当時の鉄扇は、主として中の扇子部分のない鉄だけでできたものを使っていたようです。刀を持たなくなった明治時代からは中に扇子部分がついた鉄扇が広がりました。
当時の鉄は大変貴重なもので、鉄の製造は「たたら製鉄」という方法で抽出し、加工は鍛冶職人が手で鉄を打ち鍛え完全手作業で作ります。
高価な鉄扇を携帯できたのは中・上流階級の武士ということになり、下級武士は鉄扇を持つ余裕はなかったはずです。

扇八郎さん https://senpachiro.com

酒に酔っていなければ・・芹沢鴨の酒と女

芹沢鴨といえば「酒と女」という代名詞をつけられているぐらい、酒癖は悪かったようです。
芹沢は酒が入ると、暴れたり脅して金を出させたりと手がつけられなくなります。しかも酒が入っていないことがないという程、朝からよく飲んでました。

酒を飲んでいない芹沢鴨は、世話になっている八木邸の子供たちに面白い絵を描いてみせたり、人を惹きつける才能を持っている魅力的な人物の一面も語られており、人の上に立つだけの魅力ある人物でした。(出典確認中)

お梅さん。

新選組の隊服といえば、あのダンダラ羽織。呉服商、菱屋太兵衛に借金をして隊服を作成しました。
借金主は芹沢。しかし、当時の壬生浪士隊は貧乏で、菱屋が何度取り立てにいくものの脅しを掛けられて逃げてしまうありさま。一計を案じた菱屋太兵衛は、自分の妾(めかけ)お梅を呼び出し、借金の催促に使いを出しました。

その時22歳のお梅を若い男達が巣くう壬生屯所に通うことになります。ついには芹沢に手篭めにされることに。しかしその後も、お梅みずから芹沢のところに通っていました。
(屯所を貸し出した八木家の子ども八木為三郎さんが、後年語ったお話)
手篭めにする芹沢も悪いですが、そんなところとわかった上で通わせていた菱屋太兵衛も、よっぽどひどい男。
お梅の心が、菱屋太兵衛から芹沢鴨に移ったのでしょう。

新選組の幹部だった永倉新八が書き残した『浪士文久報告記事』にも、以下のような記述があります。

“芹沢鴨、菱屋の妾、梅を愛し居る…”

「強奪した」でも「手篭めにした」でもなく、ただ、愛したと。

芹沢の最期

芹沢鴨の最後は、新選組が開いた宴会でたくさんの酒を飲みすぎ、屯所である八木邸で寝ているところを襲撃にあいました。その横にはお梅さんがおり、彼女もまた暗殺されてしまうのです。
隊士であった永倉新八は、芹沢の死を「大きな損失」と考えたほど、ただただ傲慢なだけではない人物であったのかもしれません。