酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)

「また行くんだよ」
と勝は龍馬に行った。これで今年に入って四度目の京阪ゆきということになる。
「老中酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)を乗せて、さ。二、三日中に品川出帆の予定だ。なんならお前さんもその艦で帰ればよかろう。順動丸だ」
「そうしましょうかな」

竜馬がゆく4 P196

酒井雅楽頭(21代)

酒井 忠績(さかい ただしげ)は、播磨姫路藩第8代藩主。雅楽頭系酒井氏21代。江戸幕府最後の大老。
京都市中警備の功績により、文久3年(1863年)6月18日に老中首座。老中就任後は兵庫開港をめぐって朝廷対策に奔走する一方、年末に14代将軍徳川家茂の上洛が決定すると、常陸水戸藩主徳川慶篤、武蔵忍藩主松平忠誠と共に江戸城留守居役を命じられる。ちょうど1年後の元治元年(1864年)6月18日に老中職を退いたが、8か月後の元治2年(慶応元年、1865年)2月1日には大老となった。

三味線栗毛(錦木検校)

江戸落語の「錦木検校」は、このままでは家督を継げない酒井雅楽頭の息子と、出世の道が遠いあんま師の友情物語。

あらすじ
大名 酒井雅楽頭の次男 角三郎は下々のことが好きで殿様とは意見が合わず、大塚の下屋敷に下げられて、五十石という禄で気ままに暮らしていました。
ある日、肩が凝ったので按摩を呼び、やってきたのが「錦木」。
錦木が角三郎の肩をもみながら、錦木が好きだという落とし噺などをしていたところ、大変気に入って毎日来るようにと言います。
ある日、「角三郎さんは酒井雅楽頭様のご親類の方か、ご家中の方ですか?」
と聞いてきました。息子とはいいあぐね「家中の者だ」と答えます。
「家中の方は大名になれますか?」と聞かれ「それはなれない」と答えると

自分の師匠が学者の骨組みの講義を聞いて帰ってきて私の骨格を調べ、「お前は侍ならば大名、目が見えないので大名にはなれないが、検校にでもなれる」と言われた。
あなたも私と同じで大名になる骨組だが、ご家中であれば大名にはなれない。学者の言うことも当てになりません。と言います。

角三郎は、「もし、俺が大名になったら、お前を検校にしてやる」と約束をします。

検校
江戸時代の視覚障害者に与えられた特別な地位で、平曲(歌)三絃(ビワなどの弦楽器)鍼灸(マッサージやお灸・ハリ)で認められると地位が上がっていく。しかし検校になるまでに73段階の盲官位があり上位になるまで日数と多額の金が必要でした。
検校になれば、藩のお取り立てになったり、貸金業を認めら多額の蓄財をなした検校も相当おり、元禄7年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けたことも。

ある時、錦木は風邪をこじらせ、生死の境をさまようほど長く寝込んでしまい、角三郎のもとに行けずにいました。
久しぶりに行ってみると、角三郎がいない。近所の噂では
「実は角三郎は酒井雅楽頭の子で、家督を継いで大名になられた」と

その時に『もし、俺が大名になったら、お前を検校にしてやる』という口約束を思い出した錦木は・・・

元は講釈で、三遊亭圓朝からの落語とも言われていますから、ちょうど幕末頃にできた噺。「錦木と角三郎って、どっちもはぐれ者だったんで気が合ったんでしょう。按摩って心を許すポジションなんでしょうね。『心眼』や『麻のれん』『按摩の炬燵(こたつ)』もそうですけど、按摩さんの出てくる噺(はなし)は好きです。味わい深い噺が多いですよね。『直侍(なおざむらい)』とか芝居でもちょっとした味付けで出てきます

(春風亭一之輔/毎日新聞)」