勤王党切腹一号

竜馬は、間崎、平井、弘瀬の切腹の報をうけたとき、
ーこれぁ、武市の勤王党は瓦解するな。
と直覚した。

「たれかしっちょる者はおらんかぁ。国もとで間崎らが切腹したそうじゃのうぉ。教えてくれんかねぇ」

「中島作太郎と申します。国許での間崎先生らの一件、よく存じております」

竜馬がゆく4 P47

土佐勤王党が、土佐藩の藩政改革を行うため、青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝しようと活動。この越権行為が土佐藩主の権威を失墜させるものとして文久3年1月25日(1863年3月14日)に上洛した山内容堂より「不遜の極み」であると逆鱗にふれ、文久3年6月8日(1863年7月23日)、間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太は、共に責任をとって切腹し、土佐勤王党の獄の犠牲者第1号となる。
(wiki)

間崎哲馬

獄中には筆がないためこよりをひねって辞世の句を残した。
 丈夫今日死すなんぞ悲しまん
 略見る聖朝、旧儀に復するを
 一時猶余す千歳の恨み
 京畿いまだ樹たず伯章の旗

弘瀬健太

弘瀬はゆうゆうと切腹の座につくと、介錯人にむかい、
「オラが作法を終えるまで首をハネるな」
といい、その「研究」どおりにやって、ついに介錯の太刀は不必要であった。

平井収二郎

獄中で、壁に爪をもって絶命詩を刻み込み、白装すずやかに切腹の座に出た。
介錯人は、年少の頃から一緒に道場に通った仲の平田亮吉であった。亮吉は真蒼に緊張していたから、平井はふりむいて
「落ちついてやってくれ」
とはげまし、腹をくつろげてしばらく撫でていた。
「もはや往こうか」
と短刀を握り気合いとともに突きたてた。介錯の亮吉はあっと狼狽し、あわてて振り下ろした。が、手もとが狂い、ぐわっと後頭部の骨に当たって、刀がはね返った。
「これ、落ちつけと言うちょるのに」
平井は、苦痛で歪んだ顔でいった。
二太刀目で、首が落ちた。 (竜馬がゆく4 P49)