京都留守居役

「京都留守居役」というのがあった。
〜〜 幕末では、がらりとこの仕事の質がかわった。
諸藩の京都周旋方、公用方、応接方といった外交官連中は、京都論壇での中心的勢力で、諸藩の同役と三本木あたりの妓楼で社交し、湯水のように金を使っている。
長州藩の桂小五郎、薩摩藩の大久保一蔵(利通)、会津藩の外島機兵衛、一橋藩の渋沢栄一、などがその代表的存在であろう。
土佐藩では、吉田東洋暗殺後の政変で、この京都留周旋方は、勤王党が占めていた。
武市半平太、平井収二郎、間崎哲馬 らが、そうである。

竜馬がゆく4 P44

渋沢栄一の京都づとめ

文久3年(1863年)に渋沢栄一は、従兄で義兄の尾高惇忠、同じく従兄の渋沢喜作らと、高崎城(群馬県)を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてます。
お玉が池の千葉道場で知り合った血気盛んな勤皇志士の影響をかなり受けていたのでしょう。
しかし、惇忠の弟・尾高長七郎(従兄弟)の懸命な説得により中止とします。
渋沢家に害が及ばないよう勘当を受けた体裁を取って京に上ったのは八月十八日の政変後の頃。
江戸遊学時に交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙で一橋慶喜に仕えることとなりました。
当時、一橋慶喜は禁裏守衛総督として京都に常駐。渋沢栄一も仕官後は京都で一橋家領内を巡回し、農兵の募集等で手腕を発揮しました。

京都留守居役(きょうとるすいやく)

主に西国の諸藩が京都に置いた蔵屋敷の責任者。京都は天皇の都であるとともに、最先端の手工業都市であった。そのため、朝廷や公家との連絡、藩主やその家族が必要とする物品や贈答品などの調達にあたる必要があり、蔵屋敷を置いて、それらの任務にあたった。幕末には、蔵屋敷が尊皇攘夷の志士の拠点となり、公家への工作や諸藩の志士との連絡などに使われた。なお、諸藩は京都のほか大坂にも蔵屋敷を置き、年貢米を国元から回漕(かいそう。船での運送)した。蔵屋敷の藩役人はその販売にあたったが、たとえば福岡藩では、京都留守居役が大坂蔵屋敷を管轄している。

イミダス2010/04/01