下関砲撃事件

そんなことをしているうちに、塾内の土佐藩士が、動揺し始めた。
「坂本さん、この時節に、悠長に軍艦などなろうちょられん」
そのころ、長州が、いよいよ単独攘夷を断行し、馬関(下関)海峡を通過する船舶の中で外国の艦船とみれば、沿岸砲をもって砲撃し始めた。

さらに、京では、急進攘夷主義の長州が宮廷を牛耳り、いまにも対外決戦、鎖国断行の再勅がくだりそうな形勢にあった。

(竜馬がゆく4 P38)P58-65

下関砲撃事件

長州藩、下関海峡を通過するアメリカ商船を砲撃する。長州藩・久坂玄瑞は3月に京都を出奔した公家の中山忠光を擁し、浪士約五十人を率いて下関の光明寺に駐屯。光明寺党を結成する。
玄瑞らは、下関海峡を通過する船をめがけて、5月10日にアメリカ商船、5月23日にフランス艦、26日にオランダ艦を砲撃した。

諸外国も黙っていません。
報復のため、まずアメリカが6月1日に来襲。長州藩の軍艦三隻を大破、撃沈させます。
6月5日に今度は、フランス艦が報復攻撃。上陸した陸戦隊が前田砲台を破壊。前田村を焼き払って立ち去りました。

なぜ、外国船を襲撃したのか

文久三年、長州藩は京の三条実美ら攘夷派の公家の力添えで幕府に攘夷決行をせまります。(諸外国を日本から排除する)
執拗な催促に、ついに十四代将軍家茂が京に上洛することを約束。ついに五月十日に攘夷を決行することを約束します。五月十日には幕府が各藩に外国人・外国船の排除・国外撤去をすすめる手はずでした。
しかし、約束の五月十日に攘夷決行したのは、長州藩だけでした。

高杉晋作 奇兵隊を結成

当時の先進的だった長州でも、主な藩兵の装備は、旧式の青銅砲や三百年前の戦国時代とそう変わらなかったといいます。これでは近代兵器を装備したフランス軍には全く歯が立たず、惨敗を喫します。
そこで長州藩は直後の6月6日に、高杉晋作に海峡防衛の立て直しを命じ、奇兵隊を結成します。