容堂 入洛(じゅらく)

土佐の老公容堂が、いよいよ藩政の直接指揮をすることになり、京に入った。
伊達な殿様なのだ。
容堂の入洛を見た祇園の芸妓たちは、
ー老公云々と世間でいうので、どんな爺ィかと思っていたら、いい男じゃないか。といったほどである。
事実、容堂の入京の姿は、京都の市中の眼を奪った。
その日、容堂は「千載」と名付ける駿馬に乗り、黒魚子の羽織を裾長にまくり、袴は海老茶の緞子に枝柏を織り出した横線、それに蠟鞘の大小。
年三十六、身の丈五寸六尺、「色あくまで白く、面は肉づきて、眼中異彩あり」と記録は賛美している。

(竜馬がゆく4 P 39)

入京日,wikiより

山内容堂 36才で復帰

安政6年(1859年)2月、安政の大獄で井伊直弼に排除され、斉昭、春嶽、宗城らと共に、幕府から蟄居謹慎なっていた容堂。
土佐藩内では・土佐勤王党の暗躍で右腕の吉田東洋まで暗殺され、京都にまで勢いを伸ばしていました。

文久3年8月18日(1863年9月30日)、京都では会津藩と薩摩藩による長州藩を追い落としの八月十八日の政変が勃発、長州側の勢力は京都から一掃されて佐幕派が復活、容堂も謹慎を解かれて、江戸から土佐に帰国し藩政を掌握することに。
その時、山内容堂 36才。隠居のイメージより、めちゃくちゃ若いですね。

鯨海酔候

幕末四賢侯の一人の土佐藩主の山内容堂ですが、司馬遼太郎氏の著書「酔って候」の中で次のような記述があります。
「おれをたれだと思う」
「鯨海酔侯よ。鯨のごとく酒を飲む殿様てのは、天下ひろしといえどもおれだけだ」
山内容堂は、酒と女と詩を愛し、みずから号して「鯨海酔侯」と名乗りました。