ジョン万次郎

色が黒く、眉がせまり、いかついあごが、いかにも強靱そうな意志をあらわしていた。
「坂本君、この仁はどなただとおもう」と、勝はいった。
「さあ」竜馬は、男の顔を見た。
「お前さんと、同国の人だよ。有名な中浜万次郎氏だ」
(あっ)竜馬はおもいあたった。

(竜馬がゆく3 P217)

中浜万次郎は、15歳で漂流して米国へ行ったために、いまだに日本語といえば、土佐の幡多郡の漁夫ことばしかつかえない。
それで、旗本なのである。
だからあまりものはいわず、ひどく気むづかしい顔をしていた。
ただ、米国に滞留中、しばしば米国人を驚かせたほどのあたまのよさをもっていた。

(竜馬がゆく4 P217)

ゴールドラッシュで帰国資金を稼ぐ

アメリカの捕鯨船に助けられてアメリカに入国したジョン万次郎。
時は1848年。まさにゴールドラッシュの真っ最中のカリフォルニアにいた万次郎も砂金取りに参加します。
金山で働いた万次郎は、70日間で600ドルもの大金を稼ぎました。現在の価値で500万円以上になります。

ジョン万次郎

文政10年(1827年)1月1日に土佐の中浜、今の高知県土佐清水市中浜で貧しい漁師の次男として生まれました。9歳の時に父親を亡くし、幼い頃から稼ぎに出ていた万次郎は、天保12年(1841年)14歳だった仲間と共に漁に出て遭難し、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着。143日の遭難のところを、4人の仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられます。
船長のホイットフィールドは万次郎のことを気に入り、一緒にアメリカまで行こうと誘い、ハワイでアメリカ本土に向かいます。
この船旅のあいだ、船員らからアメリカ語を教わり、船の名前から「ジョン・マン」とあだ名されるようになりました。

アメリカ本土に渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らしました。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。万次郎は首席になるほど熱心に勉学に励みました。卒業後は捕鯨船に乗り、数年の航海を経た後日本に帰国することを決意。

嘉永4年(1851年)薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に万次郎は上陸。海外からの帰国者があやしいと、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受け、何度も足止めになったのち、嘉永6年(1853年)。帰国から2年後に土佐へ帰ることができたのです。
ちょうど、竜馬が土佐を離れ剣術修行に江戸に向かい、ペリーが黒船で江戸に乗り込みを強行な外交手段をふるった同じ年です。
相手国のことを知る唯一の人物、万次郎は幕府に招聘され江戸へ。幕府直参となります。

土佐15代目藩主山内豊信(容堂)の命により蘭学の素養がある絵師・河田小龍が聞き取りを行いまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」です。漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめており、絵師ならではの挿絵が多くある本です。土佐藩主山内容堂公にも献上され、多くの大名が写本により目にし、2年後河田小龍を尋ねた坂本龍馬や多くの幕末志士たちも目にしたに違いないと思われます。
ジョン万次郎は、高知城下の藩校「教授館」の教授に。後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けたといわれています。
(ジョン万次郎資料館 抜粋 https://www.johnmung.info