生麦事件

竜馬がゆく

香港ずれをした不幸な四人の英国人は、そういうすべてを、軽くみた。
日曜日。
快晴である。
馬上、談笑しながら東へ進んだ。向こうから薩摩の行列がやってくるのだが、歩度をゆるめようともせず、むろん、馬からおりようともしない。
当時、このあたりの街道は、馬二頭をならべれば一杯という狭さで、当然、衝突はまぬがれない。相手が大名行列でなくただの集団であっても、馬をおりて、道脇へ避けるのが国情の相違を超えた当然な処置であるべきだったろう。
当然、馬上の英国人団は、薩摩の行列の先頭と衝突した。
「おりろ、おりろ」

リチャードソンはなお十丁程も逃げのび、松並木の下に転がり落ちた。
なお、息があった。そこへ追いついた海江田武次が、
「武士の情けである」
と、とどめをさしている。現在からみれば、蛮風きわまりない事件だが、当時の日本人は、こう処置することが至上の正義だと心得ていた。
国情、止むを得ない。

(竜馬がゆく3 P145)

生麦事件(文久二年八月二十一日)

薩摩とイギリス 因縁の始まり

日本文化を未だ理解していなかったイギリス人と、武士が最上位で無礼講で殺人をしても許されていた江戸文化とのお互いを知らなすぎた事が原因で起こった「生麦事件(文久二年8月21日/1862年)」。

これに怒ったイギリスが薩摩藩に軍艦で乗り込んできます。「薩英戦争(文久三年7月2日/1862年)

そして、この薩英戦争でお互いの武力を知り互いに尊重し合う機運ができ、その後多くの薩摩藩の若者がイギリス留学をすることになりました。

有村俊斎/海江田 信義

島津久光が4月上京の際に「西郷が久光を待たず先に京に上った」ことを(うっかりと)伝えてしまった人物が有村俊斎と言われています。
このことがきっかけで西郷は九州薩摩に帰されます。寺田屋騒動では「精忠組」同士の藩士の説得を命じられるが失敗。多くの犠牲者を出してしまいました。
そのことがあった後の江戸上洛帰りに起こったのがイギリス人とのいざこざ「生麦事件」でした。
その後の有村俊斎は戊辰戦争などで活躍し、明治になって貴族院議員なども務めました。

桜田門外の変との奇妙な繋がり

桜田門外の変で井伊直弼の首を取ったのは薩摩藩士であった有村次左衛門といわれています。
この治左衛門の兄にあたるのが有村俊斎。島津久光の上京に参加しており、生麦事件で死亡したリチャードソンのとどめを刺した人物となります。