勤王の塾の風 池田慶徳

当道場の若先生千葉重太郎は、鳥取藩のお床几廻り役として江戸屋敷に出仕しているが、数日前から、海防視察という藩命で、品海視察に出かけている。


「近ごろは、うちの重太郎までが、天朝様がどうの、攘夷がどうの、といいだしたよ」
「鳥取藩(池田家)は勤王の御藩風ですからな」
「千葉一門もそうだ」
そのとおりである。死んだ千葉周作やその子供たちが水戸家から禄を受けていたために門人に水戸侍が多く、江戸の道場としては、早くから尊王攘夷論のやかましい塾風だった。
「それにしても、わが竜さんは、呑気なものさ。なあ、さな子」
「ええ」
さな子は小さな声で言った。
「ところで、竜馬。今度はどういう目的の出府だ」
「脱藩したんですよ」
「えっ」
「当分、かくまっていただこうと思いまして」
(竜馬がゆく3 P129)

鳥取藩

因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。因州藩、因幡藩ともいう。石高は32万5千石。

後継なしで死去した9代池田斉訓に変わり、10代藩主・慶行(池田家の分家池田仲律の長男)、幕府から指名された11代藩主・慶栄(加賀藩主・前田斉泰の四男)は共に17歳という若さで死去。

幕末の12代藩主・池田慶徳は、水戸藩主徳川斉昭の五男(庶子)で、再び幕府から指名された藩主。
15代将軍となる徳川慶喜の同年の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとっていました。

文久政局に乗り出す

文久2年(1862年)4月の薩摩藩主の実父「島津久光が藩兵を率いて上洛」し、朝幕間の周旋に乗り出す。同年7月に長州藩主毛利敬親(慶親)、土佐藩主山内豊範が相次いで入京し、京都で尊王攘夷の機運が高まったことで、池田慶徳は国事周旋に乗り出す決意を固めます。
9月に朝廷が幕府に攘夷を促すための勅使派遣を決定すると、幕府の優柔を恐れる慶徳は10月15日に入京して国事周旋の勅諚を受け、20日には毛利・山内に続いて参内を果たした。そして東下周旋の命を受け、11月5日に江戸に着くと政事総裁職の松平春嶽や山内容堂・松平容保らと会談を重ね、さらに奉勅攘夷と決した幕議に対し、異議を唱えて将軍後見職辞任を表明し登城を拒否していた実弟一橋慶喜の説得にあたります。
翌年文久3年(1863年)正月に、攘夷期限の決定と、早急に幕府主導で挙国一致体制を整えるよう幕府に建白します。