武市の革新内閣

竜馬がゆく

一方、土佐では
武市半平太黒幕の革新内閣が曲がりなりにも出来上がっていた。
「竜馬ぁ、早まりやがった」
あまり愚痴を言わぬ男だが、こと竜馬の話になると、その脱藩を惜しんだ。
しかし竜馬は、武市の成功のうわさを、海をへだた上方の地できいて
「砂上の楼閣さ。」
と、逆に不安がった。

(竜馬がゆく3 P104)

藩内改革

山内容堂・吉田東洋が改革していた土佐藩は、「開国」「公武合体」の思想を推し進め、幕府の考えに追随していました。
しかし、4月8日に吉田東洋を暗殺した武市半平太は、尊王攘夷にするべきと進言して、東洋一派を要職から外し、土佐勤王党の山内大学・山内下総らが要職について、事実上反省を掌握。
武市半平太の思想のもと、土佐藩を運営していたが、ここでも、土佐藩主に使えるという江戸時代の身分制度を打ち破ることはしませんでした。
自らの白札(上士と郷士の間)の身分を打ち破って要職を求めればこの後の展開も変わったはず。
結局は、此の期に及んで藩の運営は「上士」の身分という考えで、裏方で実権を握ることを選びました。

山内豊範と京に登る

薩摩藩・島津久光が上京する折、長州藩・久坂玄瑞は土佐勤王党も上京するよう進めましたが、その時には断っていました。
あくまで、土佐藩一丸となって尊王攘夷を求めるという理想を貫ます。
京都の三条実美を介して、土佐藩に勅命をいただきます。ここにきては藩主・山内豊範も上京を納得して、8月に参勤交代と称して京都に向かいます。