高杉晋作・上海へ

長州藩

上海留学へ

長州藩内では、長井雅楽の「航海遠略策」が藩論として採用されており、公武合体派の勢いが優っていました。
高杉晋作は、桂小五郎に長井雅楽暗殺計画を持ちかけるほど不満が溜まります。安易な暗殺で優秀な高杉を失いたくなかった桂は、海外留学をさせて目先の不満と好奇心を満足させようと考えました。
桂の手配のおかげで幕府の「第一次派遣上海使節団」に乗船できることになります。同行するのは、佐賀藩の中牟田倉之助(後の海軍大学校長)納富介次郎(工業・工芸学校の創立)、薩摩藩の五代友厚(初代大阪税関長)、大村藩峰潔、浜松藩の名倉予何人(日清修好条規の締結に携わる)など。
寺田屋騒動の六日後、長崎を出港することになりました。

上海の現状

聖徳太子の時代やそれ以前も日本に絶大な影響力と文化を発信し続けいた中国。その玄関である上海への旅は期待に満ち溢れていました。
しかし、アヘン戦争と欧米進出でどん底状態の上海はアジアの雄からかけ離れた惨状だったのです。
フランス租界(治外法権の外国人居住地)の西洋ホテルのツインルームで海外通の中牟田と同室となり多大な影響を受けます。
高杉は、我が物顔で闊歩する欧米人に対する中国人を見て、黒船で交渉を持ちかけている国々に対して何の準備もしていない日本の行く末を案じました。
ついには誰にも頼まれていないのに黒船(蒸気船)を購入しようとします。
「独断にて蒸気船和薩摩国へ注文仕候一条・・・」
と手紙を書いている途中で目星をつけていた船が売られてしまいました。

また中国に対しても、かなり幻滅します。
汚水に浄水剤を混ぜて飲料水にしている水環境で、一行は下痢に悩み、うち3人がコレラで死んでしまいます。井戸や川の水もそのまま飲めてしまう日本が世界から見て異常なほどの清潔さなのですが・・。
また、貿易でも、欧米に対しては言いなりのくせに、幕府との交渉では従来の「世界の中心の国/中国」の態度を示してくることにも幻滅してしまいます。