薩摩藩島津久光、入京

薩長両藩が家中ぜんぶ倒幕侮幕論者かといえばそうでなく、どちらも藩の首脳部や上士の九割までは保守主義で、前記、加賀藩、仙台藩と変わらなかった。
薩摩藩主の実父で事実上の藩主だった島津久光などは、明治になってからでさえ、
 倒幕?とんでもない。おれはそんなつもりはなかった。あれは、西郷らが勝手にやったことだ。
といったりした。
土佐藩の老公容堂などは、最後まで勤王色をもった強行佐幕派だったために、竜馬や武市半平太など非常な苦労をしたが、ついに最後には土佐藩有志は殿さまをおいてきぼりにして、勝手に藩兵を動かして幕府を倒した。
長州の毛利候はもっとふるっている。敬親というこの長州の殿様は、べつに愚鈍ではなかったが、英邁でもない。明治になった時、維新の功臣たちに
 おい、おれはいつ将軍になるんだ。
と訊いたという説がある。
(竜馬がゆく3 P59)

島津久光上京の理由

島津久光は、人望のあった兄、島津斉彬の意志を受け継いでの上京で
「倒幕」のつもりは全くなかったのです。(一旗あげての売名行為)
斉彬が上京を計画したのは井伊大老暗殺前で今と状況が180度違ったのです。
しかし!
薩摩藩が大挙して京に上ったのは尊王攘夷に立ち上がったと誰もが考えました。

遅れてはならじと、日本国中の志士や浪人が一目散に教に集まりました。
坂本龍馬も、新撰組組員達も、このきっかけで京に集まるのでした。

久光と精忠組

藩内における権力拡大の過程では、小松清廉(帯刀)や中山中左衛門等とあわせて、大久保利通・税所篤・伊地知貞馨(堀仲左衛門)・岩下方平・海江田信義・吉井友実等、中下級藩士で構成される有志グループ「精忠組」の中核メンバーを登用します。
精忠組の中心であった西郷隆盛とは終生反りが合わなかったが、この度(文久2年/1862年)の率兵上京のために、西郷を奄美大島から呼び寄せました。
島津久光、出陣 より)