東洋暗殺

東洋、亥の刻(夜十時)、お城を退出。
「いや、酔った」
と、御殿の玄関で若党がさしだす傘をうけとり、ぱらりとひらいた。

石段をおりるとき、東洋の身を守るようにして、数人の若い武士が前後した。きょうの進講の陪席者たちであった。後藤象二郎、市原八郎左衛門、福岡藤次(孝弟)、由比猪内、大崎巻蔵らで、いずれも東洋の蟄居(ちっきょ)当時の門弟であり、東洋が政権の座に復してから抜擢した新官僚たちである。

「では、御執政、お気をつけて」と、若い後藤象二郎はいった。

東洋は、ついにひとりになった。
前後に、若党と草履取り。東洋は左手に傘の柄をにぎり、ぬかるみを避けながら、ゆっくりと歩いて行く。
その十数歩さき。
三人の刺客が待ち伏せている。
壮漢三人。
(8竜馬がゆく2 p423)

吉田東洋

天保12年(1841年)、東洋25歳の時に父・正清が死去したため、家督を相続した。翌年には出仕し、9月船奉行に就任、11月には郡奉行へと転身。藩主・山内豊熙が進めていた藩政改革にも携わった。
病気のために一時藩政から退く。病気の療養を名目として近畿遊学し、伊勢の漢学者斉藤拙堂など訪ね教えを受けた。

その後、第15代藩主・山内容堂に抜擢され、仕置役に起用される。富国強兵論などを唱え藩政改革を行うが、容堂の江戸参勤に同行した先の酒宴で問題を起こし一時免職となる。

免職後、長浜で「鶴田塾」を開く。この鶴田塾からは後藤象二郎、福岡孝弟、間崎滄浪、岩崎弥太郎など多くの人材を輩出した。

安政の大獄が起こり、情勢が変わると赦免され藩政に復帰。
門閥政治打破、流通機構の統制強化、洋式兵器の採用などの改革を次々と行っていった。
しかし、文久2年4月8日(1862年5月6日)藩主・豊範への講義からの帰途で土佐勤王党の志士・那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助によって暗殺された。享年48歳。