長州・三田尻

船で、長州三田尻についた。竜馬は、伝馬で桟橋に着くなり、天下におどりでるような気持ちで、陸地に足をつけた。
「おい、沢村っ」と、惣之丞をよんだ。
「いよいよじゃな。これからどこへいくんじゃ。ええ方角につれてゆけ」
(竜馬がゆく3 P15)

薩摩郡千余は、三月十六日鹿児島を発し、小倉へ出、そこから藩船天佑丸に乗って、瀬戸内海を東走し、竜馬らが長州三田尻港についたころには、すでに播磨(兵庫県)の室津に入港していた。
が、竜馬と沢村惣之丞は、そういう情勢がわからず、京、大坂とは逆に、下関に向かって道を急いでいた。(竜馬がゆく3 P17)

西郷と久光1

薩摩藩主の父として、薩摩藩内では尊敬される久光も、他藩から見れば無位無冠の殿様とみられていて、不満がありました。
そこで、島津斉彬が計画していた挙兵して上洛することを考えました。
しかし、京や江戸・幕府にコネがない久光が大久保利光に意見を聞くと「西郷を呼び戻すのが薩摩藩を動かすためには必要」と説得します。
不承不承、西郷を奄美大島から呼び戻します。西郷は一度死んだことになっていたため、中央復帰。
久光から「島津斉彬が計画していた挙兵して上洛」することを言い渡されると、
「御前はジゴロ」つまり、「あなたは、田舎者か」と言い放ちます。
幕府や各藩に支持者がいて上洛を待望されていた斉彬と違い、無名のあなたが同じことをするのは、下心が丸見え。と口にします。
せごどん、そりゃ嫌われるはずです。

西郷隆盛が復帰時に名乗った「大島三右衛門」の意味は・・(下に)

島津久光

現在の鹿児島一帯と宮崎県南西部を治めていた薩摩藩は、江戸からは一番遠くに位置する藩で、関ヶ原の戦いでは徳川の敵方について敗れたものの領地はそのままだったため、徳川家に対する忠義心は薄かったと言えます。
琉球王国(沖縄)と交流し、貿易を行い豊かな財政を築いていました。また、海外からの船は、沖縄経由で八重山諸島沿いに日本に来ています。
海外文化を吸収して富国強兵を目ざす薩摩藩の中心となっていたのが、島津斉彬と久光の兄弟です。
今回の京都・入京は、<朝廷・幕府・雄藩の政治的提携を企図>する久光の運動は、文久六年(1858年)に亡くなった兄・斉彬の遺志を継ぐものとされました。

西郷隆盛が復帰時に名乗った「大島三右衛門」の意味は・・
月照逃亡事件の関与を咎められ、死んだこととして奄美大島に3年間左遷されていたことを当て付けで、(奄美大島で三年在住した)という意味で名づけました。
奄美は流罪ではなかったので、愛加那という島妻をめとり、行動も手紙のやりとりも自由に生活していました。