吉村寅太郎

夜陰、吉村寅太郎は坂本屋敷をたずねてきて、
「竜馬ぁ、一大事じゃ。もはや男子の進退覚悟すべきときがきよったぞ」
と、いった。
そのあと、低声になった。竜馬の兄の権平の耳に入るとうるさいと思ったらしい。
吉村寅太郎はひげの剃りあとの青い小兵な男で、詩才もあるがなによりも豪傑である。激情家でもある。器量も大きく、いつか、武市半平太が、
ー寅太郎に五万の兵を与えれば、馬上天下をとる。
といったほどの男だ。

「つまりはこうじゃ。薩摩の大兵をひきいて上洛してくる島津久光を大坂で待ち受け、久光を説き、これを擁して京都に勤王倒幕の旗を上げようというのじゃ。わしゃ平野と会ってこれに加盟することに決めた。決めたどころか、いそぎ土佐に帰ってきたのは、この義挙の同志を募るためじゃ」
(竜馬がゆく2 P393)

吉村寅太郎 2

吉村寅太郎1

文久元年(1861年)土佐勤王党主武市瑞山が、国事に奮起すべきことを呼びかけた。虎太郎もこれに参加した。
翌年2月、虎太郎は武市瑞山の命を受けて、長州へ向かった。龍馬と同じく、虎太郎も久坂玄瑞の熱弁に洗脳されてしまった。そして土佐に帰り、武市瑞山に脱藩を迫ったが、瑞山がこれに応じないのを知ると、虎太郎は自ら脱藩を決行した。

長州に渡った虎太郎は、約1ヶ月後の4月6日、大阪へ上った。その頃薩摩・長州・岡・久留米、そして土佐の志士百余名は、薩摩の島津久光の上京を待ち、大阪城を攻撃する計画を立てていたが、京都に上った島津久光は、討幕の意志などまったくなく、4月23日、志士の集まる伏見寺田屋に刺客を向け、有馬新七ら9人を斬殺した。

その翌日、伏見に到着した虎太郎は、薩摩屋敷に閉じ込められ、あえなく捕らわれの身となって、土佐へ送り返されてしまった。悶々と獄中生活を送る虎太郎であるが、その間に、土佐藩に大きな変化が起きる。那須信吾らによって、参政吉田東洋は暗殺され、武市瑞山率いる勤王党の発言力が大きくなっていた。この年の12月25日、虎太郎が許されて出獄できたのも、時勢のなせるところであった。