島津久光、出陣

竜馬がゆく

この前後、竜馬の一生を一変させる情報が四国山脈を越えて土佐に入ってきた。
「薩摩の島津久光が大軍を率いて京に入り、天子を擁して幕府の政道を正す」
というのだ。
幕末、この情報ほど天下の志士を興奮させたものはなかった。薩摩藩が、現在の言葉で言えば、ごく温和な形でクーデターをおこそうというものである。
長州の久坂玄瑞などは、
ー薩摩に先を越されたか。
と、じだんだを踏んでくやしがった。(竜馬がゆく2 P389)

3月16日出立

島津久光率いる薩摩藩、公武合体運動推進のため兵を率いて3月16日出立。

この一報は、幕末の政局にショックを与えました。
西郷は成功する見込みもないと冷淡でしたが、そんなことことはありません。

むしろ、藩主本人ではなく、藩主の父という立場でありながら、これほどまでのことをするということに、世間は驚きました。
無位無冠だろうと、完全武装の物々しい一団です。
無下にあしらうこともできるわけがなかったのです。

お由羅騒動(薩摩藩内での久光の立場)

お由羅騒動は、薩摩藩主・島津斉興の後継者として側室「お由羅の方」の子・島津久光を藩主にしようとする一派と嫡子・島津斉彬の藩主襲封を願う家臣の対立によって起こる。
斉彬は、将軍御三卿の一橋家当主・一橋斉敦の娘・英姫を正室としており、斉興はどうしても跡を継がせたくないため、藩主に居続けた。
40歳を過ぎても斉彬と若手藩士は「斉興隠居・調所失脚」で結束し、嘉永元年(1848年)に琉球の密貿易を老中・阿部正弘に密告するという、一歩間違えば藩改易に成りかねない紙一重の手段に打って出た。
藩主・斉興の補佐役が、責任を取って自害したことで、さらに斉彬を恨み、是が非でも久光に跡を継がそうと思う様になった。
藩改革を進めたい斉彬派と、藩主・斉興の側近家老が担ぐ久光派は一触即発。

お由羅の方が、騒動を起こそうとしている!という噂を盾に、
斉彬派は、嘉永3年(1850年)に謀反の疑いで久光派の家老らを更迭していき、嘉永4年(1851年)2月2日に斉興が隠退、斉彬が薩摩藩主となります。

薩摩藩/郷中教育とは?

領主の交代を経験していない薩摩では藩主居城(鹿児島城)城下に士分の者を集めて居住させる必要性がなかったため、領内各地にまとまって住まわせており、この集団が居住するエリアを外城(とじょう)といい、のちに郷と改められました。

この郷の中で行われる教育を郷中教育といい、「一、第一武道を嗜むべき事」として薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)という薩摩藩独自の剣術が奨励、体育教育として行われ、幼少期から青年期まで郷中頭と言われるリーダーの元で生活面など全てを集団教育で学んでいきます。

これが明治維新後、西南戦争勃発の引き金のひとつとなった私学校へと繋がっていきます。