草莽崛起

文久二年一月十五日。坂下門外の変。

翌日、竜馬は、久坂から接待役を命ぜられている長州藩士十五人にともなわれ、藩の文武修行館に行った。
この接待役の一人に、寺島忠三郎昌昭がいる。

「坂本先生。ぜひ先生の御剣技を拝見したい、と皆が待っています」
「剣ですか。あんなものは面白くありませんよ」
「ご冗談を」
坂本竜馬と言えば千葉の塾頭をつとめたほどの人物だ、だれも信用しない。

竜馬は、有備館の柔術道場にすわらされ、番茶の接待を受けた。
見まわすと、館生が四十人ばかり、ずっと下座に座っている。
みんなくだけた態度で、土瓶をまわし送りしながら、茶を飲んでいる。
「坂本先生、剣談を」
と、期待しているらしい。
(竜馬がゆく2 P376)

坂下門外の変

文久二年一月十五日。江戸城坂下門外で、老中安藤信正(平藩主)が、水戸藩・尊王攘夷派の浪士平山兵介ら6名に襲撃される。老中安藤信正は、公武合体の中心人物で、水戸藩へ下された「戊午の密勅」について強行に返納を求めていた。大老井伊直弼が殺害されて以降、警備を厳重にしていたため命に別状なし。浪士6名は、闘死した。(幕末維新史年表)

戊午の密勅
無断で日米修好通商条約を締結した幕府に対し、天皇が水戸藩に幕府牽制を命じた勅書(天皇の命令書)。

今こそ草莽崛起の時

「草莽崛起」を唱え始めたのは吉田松陰ですが、背景には長州の「風土」がありました。
関ケ原合戦で敗れ、徳川に大幅に領土を削られた毛利家は、多くの武士が帰農してたため、他藩に比べて身分の壁が低かった。それゆえ、どんな出自であろうがその人物が優秀であれば、然るべき役職に取り立てる――そんな風通しの良さが、長州には根付いていたと言えます。

吉田松陰は冷静な判断を下す現実主義者というのはウソ

私塾「松下村塾」で明治維新の礎を築くきらびやかな人材を育てた吉田松陰。
しかし、当の松蔭も当時20代の若者。草莽崛起からの尊王攘夷は、泰平の江戸時代では荒唐無稽な考えの持ち主。
長州藩上層部は、危険思想を問題視して投獄したり、江戸に移送するのことになったのも、本人がうわべのウソをつかなかったためと言われます。