三津浜

文久元年 村上海賊,九鬼水軍

伊予の三津浜から長州藩領には定期便船というものがない。
長州船の面倒を見ている三津浜の廻船問屋では、荷船だからどうしてもだめだ、という。やむなく、じかに船頭にあたって見たところ、その「住吉丸」という船の船頭が、「土州の坂本さまならよく存じている」と言って二つ返事で請けてくれた。
「名はなんと申した」
「讃州仁尾生まれの七蔵だ、と」
「おお」竜馬は興奮のあまり、桃尻をつかんだ。
「しっちょるどころか、七蔵はおれの師匠だ」(竜馬がゆく2P354)

初めて江戸に登るときに出会った七蔵と再び再会する筋書きです。
当時、四国・九州から本州に移るためには船は必須。外海の影響を受けない瀬戸内海は波は穏やかそうに思えますが、その実、潮の緩急や海底の岩場の加減などを知らないと危険な場所も多かったと言います。
織田信長の時代には海賊がいたとされますが、船を先導して危険の無い運行を助けていたともいわれます。
小説にもなった村上海賊や、関ヶ原の戦いで活躍した九鬼水軍が有名です。

村上海賊と司馬遼太郎

村上海賊は、戦国時代から江戸時代初期の伊予国などで活躍。その卓越した戦い方は、水軍の兵法書『村上舟戦要法』として後生まで伝わります。
司馬遼太郎は、小説「坂の上の雲」執筆にあたり、主人公・秋山真之の日本海海戦の際にこれを参考にしたと言われています。

九鬼水軍

「九鬼」の名が歴史の大舞台に登場するのは、戦国時代。「九鬼嘉隆」という人物が熊野の各水軍を一つにまとめ、九鬼水軍を組織しました。

天正6年(西暦1579年)、世界史上初めての鉄張りの巨船7艘で当時最強の毛利水軍600隻を撃破しました。その後、秀吉の時代には三重の鳥羽に城を構え、嘉隆の栄華は頂点になりました。しかし、関ヶ原の合戦では一族の存続のために親子で二手にわかれました。

西方についた九鬼嘉隆は、関ヶ原の合戦で敗軍として逃れ四日市の地にたどり着きます。その後四日市で住いを構え、水軍としての能力を活かし兵庫県・赤穂の塩を東京に販売するなど回船商売を始めます。
江戸時代には武士を捨て商人となりました。これが四日市・九鬼家の始まりです。

秀吉側についた九鬼守隆は、九州征伐や朝鮮出兵で水軍総督を務めた大名となりります。守隆の死後、五男の久隆と三男の隆季との間に家督争いが起こり、この家督争いを理由に内陸の三田(今の兵庫県三田市)と綾部にそれぞれ移封。これにより、九鬼氏は鳥羽の地と水軍を失い、宗家を三田に移し廃藩置県までの約240年間、三田藩を統治することになります。