伊予松山

国元の高知表へ急飛脚をさしたて、剣術詮議の旅を延引してもらえるよう、請願した。要は、長州へ潜行する時間を得るためである。
その返事が来るまで、松山城下の旅籠に逗留した。
不自由な時代であった。(竜馬がゆく2 P351)

伊予松山藩

徳川二代・秀忠からの家臣松平定行(親藩)が、寛永12年(1635年)伊勢国桑名藩より15万石で入封し明治維新まで続く。
13代藩主勝成は、安政6年(1859年)に勝海舟の設計により、外国船舶に対処するため武蔵国神奈川(現在の横浜市神奈川区)に砲台の築造を始め、神奈川付近の警備を行う。
幕末は親藩のため幕府方に
長州征伐では先鋒を任され出兵。財政難の極致に陥った。この際に占領した周防大島において住民への略奪・暴行・虐殺を行ったことが後に長州藩閥から冷遇される要因となる。
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは定昭と藩兵は梅田方面の警備に当たっていたが、徳川慶喜が江戸に引き上げたと知り帰国する。この戦いにより朝敵として追討され、城内では先代藩主勝成の恭順論と定昭の抗戦論が対立するが、1月27日に戦わずに城を明け渡して土佐藩の占領下に置かれることに。

いよかん

「伊予柑」は日本で生まれの果実だと言われています。明治時代、1885年(明治19年)に山口県阿武郡東分村(現:萩市)で発見され、愛媛県で栽培が本格的にされるようになりました。
明治時代は、紅みかん、穴門みかん(あなとみかん)と呼ばれ、「伊予柑」の名称は、1930年(昭和5年)に伊予国(愛媛県の旧令制国名)にちなんでつけられました。
温州みかんとオレンジをかけあわせてできたと言われています。(はっきりとした記述がなく起源が不明)
1月頃が出荷時期で、毎年受験シーズンになると、「いい予感」との語呂合せで、受験生がよく祈願する神社等での配布されることも。

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