萩へ

竜馬がゆく

文久元年十月十五日

藩庁へ請願していた竜馬の旅行願いが、意外に早くおりた。旅行の目的は、剣術詮議のため讃州丸亀城に参るというもの。
無論これは表向きだ。真の目的は長州へ飛び、萩城下で長州藩の勤王党の連中と会い、この藩での倒幕運動の実際を見る。
(万事、みにゃ、わからん) (竜馬がゆく2 P311)

讃岐高松藩 松平家

徳川の流れを組み、水戸黄門(徳川光圀)の異母兄弟松平頼重が初代。
幕末期の動乱の中では親藩であり、徳川慶喜とも縁戚関係に当たったため(血縁上は従兄弟)、佐幕派として京都・摂津方面の警備を務めた。元治元年(1864年)の禁門の変では御所の警護を務めました。

弘化元(1844)年5月、ご存知「烈公」として名高い水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が幕府から隠居・謹慎を命じられていますが、この斉昭の隠居・謹慎を裏で糸をひいた黒幕こそが、当時の高松藩第10代藩主・松平頼胤であるという噂が流れ、「頼胤自身が水戸藩を乗っ取ろうとしているからだ」という流言までもが水戸藩内を駆け巡りました。
 そして、さらに水戸藩士らの感情に火に油を注いだのは、高松松平家と彦根井伊家との縁組みでした。

 水戸家と井伊家の間では、文化5(1808)年に「松戸川事件」という船喧嘩事件も起こっており、元々水戸家と井伊家は互いに相容れぬ間柄であったのですが、その井伊家と水戸の支藩とも言うべき高松松平家が縁組みを行なったことは、水戸藩士達の感情を非常に刺激しました。
 彦根藩第16代藩主・井伊直弼の次女である弥千代姫と高松藩第10代藩主・松平頼胤の世子である頼聡が、安政5(1858)年4月21日に婚儀を取り結び、この両藩の縁組みが成立したのですが、元々高松藩と彦根藩は同じ「溜間詰」の大名であり、お互い親交が深かった間柄であったため、その運びとなったのです。