河田小龍

(洋学も学ばにゃ、ならん)
と、竜馬はだいそれた野望をおこしたのである。
「洋学。-」
武市半平太も驚いた。武市は、漢学、国学に造詣がふかいが、洋夷の学問まではやっていない。
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竜馬は、世界のことが知りたい。万里の波濤を蹴ってこの極東の列島帝国まで黒船を派遣してくる「西洋」というものがふしぎでならなかった。
それは、子供のように無邪気な好奇心であった。
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「されば、たれに就くのじゃ。この城下には蘭学者などは居やせぬぞ」
「一人いる。蓮池町の河田小竜老人じゃ」
「小竜。あれはお前、絵師ではないか」
「絵師、絵師」
「絵師ずれになにがわかる」
(竜馬がゆく2 p176)

memo 河田小龍

幼い頃から画才があり、島本蘭渓に弟子入り吉田東洋に従い京に遊学、京狩野家九代目の狩野永岳に師事する。
嘉永5年(1852年)、米国から漁師・中浜万次郎(ジョン万次郎)が帰国。 土佐藩が取り調べにあたり許可を得て、万次郎を自宅に寄宿させ、起居を共にしながら毎日役所に出頭させるなかで、万次郎に読み書きを教えつつ、小龍自身も英語を学び、お互いの友情を感じるまでとなった。

小龍は、万次郎が語る異国の生活事情に大いに啓発され、鎖国日本の現状と異国の発展ぶりとの落差に驚き、大統領が選挙で選ばれることには万次郎の話が事実であるか疑いさえした。 万次郎の夜語りを聞き捨てにすることを惜しんだ小龍は、一切の私見を加えず、小龍の挿絵を加えて漂巽紀畧五巻として上梓し、藩主に献上した。そして同書が江戸に持ち込まれると、諸大名間で評判になり、万次郎が幕府直参として取り立てられることとなった。

かねて親交のあった藩御用格医師・岡上樹庵の妻が、坂本龍馬の姉・乙女であったことから、小龍は外国の大船を買い同志を乗せ人・荷物を積み海洋に乗り出し、「『貿易』によって異国に追いつく事」が日本のとるべき道だと龍馬に説いた。