頭に情景が… 棋聖・天野宗歩

突然学問をすると宣言した竜馬。資治通鑑を独学で学んでいると聞きつけた若侍たちに音読で読んで聞かすと支離滅裂な我流・・たまらず皆が笑い出し・・

「タマルカ」そううごめいている。これが辛抱できようかという意味である。
「竜馬、それでは意味がわかるまい」
「意味ならわかる。まあ、そこで聞け」
と、竜馬は、このくだりを二時間にわたって講義した。
それがいちいち正鵠を射ているので、大石らはだんだん気味が悪くなってきた。
「もう良い、竜馬。いったい読めもせんで意味ばぁ、わかっちゅうはどういわけじゃ」
「わからん。わしは文字を見ちょると、頭に情景が絵のように動きながら浮かんできおる。それを口で説明しちょるだけじゃ
不思議な才である
(竜馬がゆく 2 P175)

天才棋士・天野宗歩

将棋は江戸時代でも人気のゲームで、当時の銭湯には将棋盤と駒は置いてあり、お風呂のついで、または将棋そのものが目当てで多くの人が将棋を楽しんでいました。
物心ついた時から将棋を指していた留次郎(のちの宗歩)は、「菊坂の神童」として噂となり、文政三年(1820年)にたった5歳(数え年7歳)で大橋本家の大橋宗金(十一代大橋宗桂)の門下となります。

幕府は1612年(慶長17年)、将棋の大橋宗桂に俸禄を支給し、宗桂は五十石五人扶持を賜りました。ここを家元として将棋所を開きます。
江戸時代を通じて、名人は大橋本家・大橋分家・伊藤家の「将棋三家」の世襲制で、一度名人位に就いたら亡くなるまで名人の終生名人制になります。

天才棋士・天野宗歩は、類稀な実力であっても世襲制だった名人には推挙されず、段位も七段までしか上がらなかった。
しかし「実力十三段」と言われ、後に棋聖と呼ばれます。これが現在の将棋7大タイトルの「棋聖」のいわれとなります。

天野宗歩は強すぎた為、記録に残っている大半の対局が駒落ちとなっています。
特に香落では比類無きと強さだったとあります。

天野宗歩を現在のプロ棋士が評価したコメントがあります。
升田幸三・実力制第四代名人が、十三段(これは名人より上であろう)と評したのは、 天野宗歩の将棋の中にそれだけのものを見い出しただけでなく、 自分自身の将棋もそれくらいのものと思っていたのではないでしょうか。
プロになったところの四段は、「まあ四段くらいでしょう」と評価しました。

百何十年も前の棋譜を評した判断ですが、天野宗歩を評価した人達は、彼の実力はこれこれこのくらいであろうと言いながら、 実は「自分自身の実力」を言っています。(評価している人達は素人ではなく、 将棋に関してはプロかプロの卵達であることも重要)
過去の棋譜を研究するのがプロ棋士の基本で、今の自分が読めば多少のミスも判断できますが、百何十年も前の棋士と現役が同等というのは、すごいこと。
その上で、升田幸三名人が自分以上の十三段と評したのは、現在の条件で技術を磨いたところまで想像できたのでしょう。

対戦途中で絶局。

実力の違いで段持ち相手でも駒落ちで戦っていた宗歩。
安政6年(1859年)3月28日に市川太郎松と右香落で対戦。26手で指し掛けとして、これが宗歩の絶局となります。
同年5月14日に44歳で死去。
指し掛け 将棋で、勝負が決しないまま後日に指し継ぐことにして、一時中断すること。特に、二日以上にわたるときに行われる。

晩年の宗歩は将棋は強かったが、素行は悪く、酒色に溺れ賭将棋をしていたという記述が残されています。『天野宗歩身分留』には、表向きは病死ということで寺社奉行に届け出たとありますが、実際の死因は別であった可能性も・・。

宗歩の詰め将棋

『読売新聞』の観戦記者であった菅谷北斗星氏が、昭和16年(1941年)に発見し発表した詰め将棋。ただし、それまで宗歩の詰め将棋は、何も残されていないとされていたから、これが本物とはいえないらしい。
発見された図には、「嘉永五壬子歳 大小詰物 玉方之駒大 詰方之駒小 平安天野宗歩」と但し書きがあり、持ち駒の記載はなし。

玉方・詰め方の駒数が、閏年の月の大7・小6を表しているという説が有力。他には、斜め2線のラインが大小の刀という見方も。