大石弥太郎

竜馬が書物を読んじょる。

といううわさが、城下の若侍のあいだにひろがったのは、それからほどもないころである。

物見高い土地柄だ。これという娯楽のない城下だから、知人のうわさがすべて酒のサカナになる。おたがいみな劇中の人物である。

 それに、伴奏まで入る。土佐の風で、そのときどきのうわさを巧妙に唄に煉りこむのである。それを、若侍が二、三人群れては、当人の門前を唄い流してゆく。

武市咄に坂本竜馬
 本をさかさに論語読む

「一度、竜馬の学問を見物にゆこう」
と若侍たちが寄り合った。
のちに土佐勤王党で働いた大石弥太郎ら三人が本町筋一丁目の坂本屋敷にやってきて、竜馬の部屋をたずねた。

(竜馬がゆく2 P173)

大石弥太郎

(おおいしやたろう)
1829年11月30日(文政12年10月17日)- 1916年(大正5年)10月30日)
日本の土佐藩士、迅衝隊士。弥太郎は通称で、諱は初め元敬、のち圓(まどか)と改めた。位階は従五位。

土佐勤王党結成に尽力し、盟約書の起草を手掛けるなど同党幹部として活動、戊辰戦争においては板垣退助の率いる迅衝隊で小軍監などを務め各地を転戦した。明治維新後は新政府に出仕するが程なく辞し、以降は高知政界における「古勤王党派」の中心人物として影響力を有した。

同じく勤王党員で吉田東洋暗殺の実行犯の大石団蔵は従兄弟にあたる。

土佐勤王党の結成

文久元年8月、武市とともに土佐藩の同志の団結を図るべく、江戸遊学中の同志とともに土佐勤王党を結成した。勤王党の盟約書は大石の手によるもので、武市に次ぐ2番目の署名者となった。武市が土佐に戻り党勢拡張に努める一方、藩命で洋学修業を命ぜられている大石は江戸に残り、前藩主山内容堂の赦免に向けた活動などを続けることとなった。

慶応三年、イカルス号事件のため乾退助らと沿岸警備についた大石だったが夕顔丸船中に居た龍馬から海防のモノモノしさを忠告されると「攘夷ではなく、これは討幕の演習だ」と答え、龍馬を大笑させている。