武市富子

アギはいますかいの

帰国して三日目に、竜馬は、播磨屋橋を東へわたって、新町田淵町という、町名の二つかさなった城下の町に出かけた。
そこに、武市半平太の「瑞山塾」がある。
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「アギ(顎)はいますかいの」と、竜馬は塾生のひとりにきいた。
「あぎ?」
「半平太のことです」
「あなたは?」
塾生は、じろじろとこの無礼な来訪者をみた。
「法螺※じゃというてもらえばわかります」
塾生は横っとびになって玄関へかけこんで武市に報せた。
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「さて竜馬、何の用じゃ」
「わしはの。学問をするんじゃ。なんぞよい本はないか」

竜馬の学問の一件については、のちの竜馬の同士で土佐の若手きっての学者平井収二郎(号 隈山)が妹に送った手紙に
・ ・・もとより竜馬はひとかどの一人物なれども、書物を読まぬゆえ、時にしては間違うこともござ候へば、よくよく御心得あるべく候。
(竜馬の考えや行動は、独創すぎてときに定石をはずす危険がある、あれの煽動に乗るな)

※あぎ・あざ

龍馬と半平太はあぎ・あざと呼び合ったと云われている。
あぎは、武市半平太のアゴを指したもの。
あざは、坂本龍馬の顔にホクロが多く、あざと呼んだらしい。

武市 富子

(たけち とみこ)
天保元年(1830年)- 大正6年(1917年)4月23日)幕末の志士・武市瑞山の妻。

高知藩郷士・島村雅風(源次郎)の長女。ロシア正教日本人初の司祭の沢辺琢磨は従弟。嘉永2年(1849年)、武市瑞山に嫁ぐ。夫の瑞山は土佐の若手志士たちと交流が深く、富子はたびたび訪れる志士たちの応対に努め、夫を助けた。文久3年(1863年)、瑞山が投獄されると、自分も夫の辛苦を共にするために、その日以来、板の間で寝て決して畳で眠らず、夏は蚊帳をせず、冬は蒲団を使わずに過ごしたという。慶応元年(1865年)、夫が切腹となると家財のことごとくを没収され、困窮を内職でもって生計を立てた。

竜馬がゆくでは、坂本龍馬が武市半平太の「瑞山塾」から帰る時、いつも決まった塀に立小便をして帰って富子は何度も半平太にやめさせるよう意見するくだりがある。

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