会津小鉄4

浪人浮浪雲
産寧坂

ふたたびお田鶴様から使いが来て、封書を手渡した。
ー会いたい。
という。指定の時刻は宵八時。ところも清水産寧坂の料亭「明保野」である。

「田鶴はこまるのです」「なぜですか」
「そりゃ、女でございますもの」
この時である。庭の植え込みが、わずかに動いた。(密偵か)

座敷がパッと明るくなったのを見て、(おおっ)と庭の男は及び腰になった。
「お田鶴様、おいきなさい」
「ここにいます」
「では夜明かしで三味を弾きますか」

memo 会津小鉄4

池田屋事件では、会津小鉄が関わっていた噂は、昔から強く疑われている。潜伏している尊王攘夷派の情報を事細かに集めて、待ち合わせの場所の絞り込みや、集まる顔ぶれや・人数が分かっていなければ、新撰組も動きようがない。

情報があっても、会津藩としては二の足をふんでしまっていた。
一方、わかりやすい手柄が必要であった新撰組は、少人数であっても、長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を相手に襲撃していった。

大規模な戦になった禁門の変で、会津小鉄は多くの軍夫の手配を集め、物資輸送などの後方支援を請負った。会津藩の半纏をまとった小鉄が陣頭指揮をとったと言われている。
会津藩の半纏を着た、小柄な鉄五郎はこの頃から「会津小鉄」の二つ名ができたと言われる。