会津小鉄3

智福院

吉田山に竜馬が登った時には、すでに夕暮れで、紅葉の色が、斜陽を含んで血をしたたらせたように艶かしかった。
ほどなくしてお田鶴様もあらわれ、炉の向こうに座った。
「竜馬殿もいいお顔つきになられました」
「お田鶴様は、一段と美しく御成遊ばしましたな」
「竜馬殿も、世辞が使えるようになりましたか」
「もう二十四ですから」

memo 会津小鉄3

幕末の京都は、討幕を目指した尊王攘夷派の志士が諸藩から集い、治安は悪化の一歩をたどっていた。天誅と称して要人を暗殺し、商家への押し入りも多発。治安を司る京都所司代と京都奉行所ではもはや防げない時代であった。
そこで新たに設けたのが「京都守護職」であり、会津藩主・松平容保が任ぜられた。

京都守護職は、京都奉行所や大阪城代よりも地位が高く、主に尊王攘夷派の取り締まりを任ぜられ、支配下に新撰組などを従えた。

京都左京区の光明寺に本陣を置き、藩兵を1千人率いていたので、まずは会津判定・屋敷が必要に。
建築のための職人・人夫集めを請け負ったのが、鉄五郎こと小鉄の兄弟分・大垣屋青八であった。ここで会津藩との繋がりが始まる。

現在にも新撰組の活躍が残るが、どこに・誰が潜伏しているかの情報が一番肝心である。京都市内のアンダーグラウンドな情報を的確に集められるのが、博徒として多くの鉄火場に顔が聞く男。小鉄の出番であった。

小鉄は、祇園と並ぶ繁華街の二条新地の大文字長に一家を構える。多くの子分を抱えて、京都の情報に最も詳しい一人になった。