会津小鉄1

(梅園さまのお屋敷に入って、南へ内塀を乗り越えていけば、三条様の屋敷に出られる)


その時、藤兵衛の後ろから「おい、薬屋」と声をかけたものがいる。
猿(ましら)の文吉といわれた目明しである
「ワレァ、江戸もんやな。なぜ公卿屋敷の界隈をうろついとる」
「実は京に上るとちゅうで、京のお公家さんに多額の薬を買い上げいただき、京で払うといわれたんで探しているのでございます」
「なんというゴッサンけぇ」
「なんでも、東五条さまという・・」
「阿保、そんな姓のゴッサンはないわ。」
「へー。」
「お前それ芝居け。違う?それあったら、行ってええ」

memo 会津小鉄 1

1833年7月7日の生まれと伝わっている。1885年(明治18年)3月19日没
生まれも育ちも、全くわからない。そんな男が京都で一大勢力を構えるまでなるのが、幕末のダイナミズムかもしれない。

出生
(説)大坂島之内の太物商の娘の私生児として生まれ、元水戸藩士の父が国許に帰ってしまい、父を追って母子流浪の旅の末、雪駄直しの職人の妻となる。のちに会津藩と関わりを持っていく
(説)生まれた場所もわからないが、秩父・坂東・西国・四国を母子巡礼しながら放浪の旅の末、大阪で雪駄直しの職人の妻となる。

青年期の足取りもわからないが、江戸にある京都守護職の会津藩の中間部屋に入る。中間部屋で博打の味を覚えるが、周囲との揉め事を起こし続けていた。
数多く問題を起こして江戸にいられなくなり、いよいよ京都に姿を現す。

京都に現れてからは、足取りが残っている。
公家屋敷の博打部屋に団子や餅を売り歩く商売を始め賭場に出入りするようになるうち、「じゃがら」と呼ばれる賭場荒らしと喧嘩をして叩きのめす。この頃から京の賭場で小鉄の名が広まっていった。京や大坂の賭場を荒らし回り1856年(嘉永9年)ころに京都にあった江戸・会津藩中間部屋の世話となる。後、二条新地大文字町に一家を構えた。