河原町 大場の久八

浪人浮浪雲

竜馬は京に入った。


このところ、世上騒然としはじめているため、京に滞在する者は、宿所の軒先に 何藩何某 と張り紙を出すようフレを出している。
「ほう、千葉道場の坂本ではないか」
剣客仲間で、竜馬の名は、高くなっていた。

「旦那、どうかご勘弁を」寝待藤兵衛は日に何度もあやまっていた。
(三条家には、お田鶴さまがいる)そのお田鶴さまにどうやって手紙を渡すか。
「藤兵衛。仙洞御所の北にある三条家に忍び込め」忍び込みとなれば、藤兵衛はこの道30年である。
「3日は貸していただきたい」
「まあ、頼む」竜馬は、藤兵衛に任せ、あとは旅籠で酒ばかり飲んでいる。

memo 大場(だいば)の久八

品川台場の建築に尽力した伊豆の大親分
江戸時代後期の博徒で、伊豆・甲斐・武蔵・相模一円におよそ3,000人の子分を抱えた伊豆の大親分。


嘉永6年(1853年)のペリー来航に対応するために、ペリーの軍事的実力をスパイした中島三郎助(中島三郎助の憂鬱)が集めた情報をもとに、
再来航に備えるために江戸城前の海に砲台を作って江戸防備を図ろうと埋め立てたのが、江戸のお台場と、時期を前後しての大阪・堺のお台場。
半年あまりで完成しなければいけない突貫工事だが、当時は人力のためやはり工事人足の手配が難航した。
品川台場の工事人足の間で賃金不払いによる紛争が起こると、久八が天野海蔵を介して江川代官から請われ、その懐柔役として働いた。久八の採った方法は、人足に毎度食と日当を提供し、銭樽の懸賞を付けて士気を上げるというものだったと言う。この時の働きにより、人足たちから「台場の親分」と尊敬され、これに出生地に近い「大場村」が混同されて「大場久八」と呼ばれるようになった。