四日市_黒駒勝蔵

竜馬が目覚めた時には、すでに陽も高くなっていた。
(しまった)

旅館に戻ってみると宿の女主人が
「あんたさんどこへ行っておいでやすかえ。おつれさん、もし帰れば大急ぎで後を追ってくれと申し伝えてくれと、申されて」
「わかった」
竜馬は往来に出た。後ろから妙な男がつけてくる。(何者)竜馬は警戒した。
「旦那」と遊び人風の男が声をかけてくる
「赤蔵と呼んでくださいまし。桑名で小間物屋をしておりますが、藤兵衛ドンの古い仲間で。」(ほう。こいつも盗賊か)

「旦那、早く」と急き立てる。早く播磨介に追いつくのが、藤兵衛から与えられた仕事なのか。「亀山まであと二里半でございます」

memo 黒駒勝蔵

清水次郎長のライバルと語り継がれる黒駒勝蔵。

初めて顔を合わせたのが、文久元年(1861年)金平と次郎長の手打ちの時と言われている。この時金平の隣に座ったいたのが勝蔵であった。勝蔵の本拠地・甲州は、年貢米を江戸に送るのも、必需品の塩を手に入れるのも清水港を利用しなければいけない。荷役にしろ、塩にしろ、清水を通るから高くつくので元からいざこざが絶えない。

甲州博徒の代名詞・黒駒勝蔵
武田信玄の流れを汲む甲州地方は、江戸幕府の幕藩体制が徹底できていず、山間部なので用水や山や田畑を巡って紛争が絶えず、自衛と暴力が紙一重とも言えた。
黒駒村の勝蔵を始め、竹井安五郎、三井卯吉、津向文吉ら群雄割拠の甲州博徒を形成していた。

ペリー入港騒ぎの混乱に乗じて流刑先を島抜けした竹井安五郎は、文久五年(1858年)に甲州に戻ってきた。勝蔵は安五郎の子分となったが、島抜けの大罪人安五郎を追う幕府側との戦いが始まった。

後に反政府の東征軍の先鋒で名をはせる赤報隊の結成メンバーとなるのはこのころの遺恨があるのかもしれません。