時雨蛤みやげにしやさんせ_次郎長一家の窮地

浪人浮浪雲

その後竜馬は、夜旅を避け用心した。播磨介も、すっかりこの護衛には感謝して、「坂本殿。このご恩は忘れませぬぞ」と、何度もいった。
「なに、礼などいわれると」竜馬は嬉しそうに恐縮している。
桑名 松平越中守の城下町である。
旅籠の亭主が「ただいま、当桑名様のご家中にて鹿田伝兵衛様がお見えになり。一目お目にかかりたいと」

播磨介は、江戸水戸藩から、今度の安政の大獄に対して井伊大老排除の密勅を届ける密使であることを告げ「お手前も尊王のお心はお強おすやろ」と当時の若者の血沸く言葉をかけた。

「ちょっと失礼」と竜馬は藤兵衛に播磨介の擁護を伝え、出かける。

時雨蛤みやげにしやさんせ 伊勢の飯盛女(おかめ)の情けどこ
宿の客引きの卑猥な歌を聞ききながら

兄弟子 桑名藩剣術指南役 鹿田伝兵衛の道場にたどり着き、ひと稽古の後、
剣術について語り飲み交わす


「武蔵はつよい。(中略)しかし、武蔵の芸には重大な欠陥がある。それは、武蔵の芸が後継者を生まなかったことだ。・・・」
「その点、同時代の巨人であった伊藤一刀斎はまったく別の剣客である。一境地をひらくごとに一理を樹てた。(中略)理があってこそ、万人が学ぶことができる。・・・」

(宮本武蔵でもアメリカ船に斬り込んでうち払えんからなぁ)

memo 次郎長一家の窮地

安政五年(1858年)出入りの助っ人をしていた次郎長は甲州町奉行の役人に追われ、目を掛けていた保下田久六の縄張り「尾張名古屋」に隠れていたが、久六が役人に次郎長の身柄を売った。激怒した次郎長は子分の大政、森の石松、八五郎の少数精鋭で襲ったが、久六は子分に守られ逃げられてしまう。

翌安政六年、遂に久六を撃つことができた。しかし久六を殺害したことで、次郎長と敵対する博徒グループと全面対決となり、森の石松をこの紛争で殺されてしまった。

激怒した次郎長は石松を撃った吉兵衛兄弟に狙いを定めるが、吉兵衛は伊豆下田の大物博徒、金平に救いを求める。次郎長は、金平の襲撃をかわしながらも石松の仇である吉兵衛を遂に打ち取ることができた。

清水次郎長は伊豆下田の金平に「石松の敵討ちが目的で、金平から命を狙われる筋合いはない」旨の書簡を出し、手打ち(和解)をもつ。

次郎長と金平の手打ち式は、東海道、菊川の宿で執り行われた。大物同士の手打ち式には四百人以上の博徒が集結したという。