文武教授

安政三年十一月


藤兵衛の話だと、会津城下で町道場を開いていた信夫左馬ノ助が江戸に戻ってきているらしい。
「やはりもとの本所鐘ノ下でさ。表の造作をすっかり変えて、見違えるほど立派な道場になってやがった。文武教授・文明館 そんな名です」
「文武教授?武はまだしも、文はおどろいた。」
「当節流行ですよ。門人をとりたてなにか事が起こるのをまちかまえている。体のいい攘夷浪人の巣ですぜ。本所や深川辺りにはおおいう今出来の道場が多い。」
左馬助でさえ攘夷派になる世か
竜馬の仲間では武市半平太がその急先鋒だ。
ところが、幕閣の外交方針は、攘夷ではない「恐夷」と言った態度で列強の武力に恐れをなして、軟弱外交をつづけていた。
今上(孝明天皇)が病的に外国嫌悪症におわした。このため諸国の攘夷派が京に上ってきて、幕府と対立する論壇ができあがってきつつある。
これが尊王攘夷論になり、攘夷倒幕論になるのである。

memo 天然理心流剣術道場

江戸市谷甲良屋敷(現在の東京都新宿区市谷柳町25番地)にあった天然理心流剣術道場・試衛場は、天然理心流3代目近藤周助が創立した。
武蔵国多摩郡の百姓の三男宮川勝五郎は嘉永元年(1848年)十一月に入門し、養子になり、勇と改名して文久元年(1861)につぐ。
近藤勇は、のちの上洛まで道場を務めており、門弟として土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、食客として永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一(『浪士文久報国記事』による。但し、斎藤については不明な点がある)等がいたとされる。