プチャーチンの遭難

江戸時代の常識・風習

「坂本さん、どうなされたのです。」
千葉道場に戻ると、みな竜馬を見て驚いた。この地震騒ぎの中、女をおぶっている。
「この女は深川まで帰るのだが、この騒ぎ、明け方まで預かってくれんか。藩邸の様子を見て来る」
鍛冶橋屋敷について様子を聞くと、御門の瓦が落ちたぐらいで大事ないと。
道場に戻ると、さな子が出てきて
「坂本様の荷物は、もう地震もやんだようだからと、たった今深川にお帰りになられましたよ。あの綺麗なお荷物とどこにいらっしゃいました?」
「ついその辺りで」

竜馬がゆく

プチャーチン・ディアナ号の遭難

午前9時過ぎに発生したと言われる。震源地は遠州灘から駿河湾内の全長200キロメートル以上に及び、推定マグニチュードは8.4とされています。
この地震では、伊豆・下田から、遠州灘、伊勢の沿岸にわたって津波が押し寄せて甚大な被害が出ました。

ロシア海軍ディアナ号

かねてから日露条約交渉を進めていたロシアは、この十一月三日にプチャーチン率いるロシア海軍ディアナ号を伊豆下田に派遣して、長年の交渉の末に幕府側と交渉をすることに。
交渉場所は下田・福泉寺で、幕府応接掛主席で大目付の旗本・筒井政憲と勘定奉行の旗本・川路聖謨を相手に協議に入っていました。
強行的な外交のアメリカと違い、ロシアのプチャーチンは、紳士的に日本の条件を飲んで進めていました。

その時、大地震が!

東南海で起こった大地震により、そこから発生した大津波は江戸から東海に何度も押し寄せてきます。
下田で幕府と和親条約を進めていたロシア海軍も、ディアナ号が大破し、水兵一人が死亡した。交渉場所の福泉寺も被災し、競技は一旦中止に。
下田の村はこの安政の地震で9割が倒壊する大被害を受けましたが、プチャーチンはディアナ号の船医を派遣して負傷した日本人の治療に充てさせます。
その後に日露交渉にあたっていた幕府は、ロシアに対し印象を変え、スムーズに日露条約交渉を進めることになります。

ディアナ号の災難

船舶修理のためディアナ号は伊豆の戸田港(沼津市)に曳舩していくと、今度は嵐に遭遇し、宮島村沖(静岡県富士市)で沈没してしまう。
ディアナ号を発見した三四軒屋の人々は、初め心配顔で見守っていました。やがて、乗組員を乗せたカッターが船から離れるのを見た人々は体に綱をまきつけ、乗組員全員を救助しました。三四軒屋の人々は、寒さにふるえる異国の人々に、自分の着ている上衣までぬいで着させてやるなど暖かい心で接したという話が残っています。

プチャーチン率いるロシア兵はその後陸路で戸田村へ向かい、ひと月後の12月21日に条約を結ぶこととなった。

この時海底に沈んだディアナ号の錨は、漁民の網を度々やぶることがあり「唐人のねっこ」と語り継がれてきた。昭和51年8月、この錨は五貫島の三四軒屋沖合水深24mから引き上げられ、沼津市立戸田造船郷土資料博物館に置かれています。