地震騒ぎ_ロシア海軍遭難

嘉永七年十一月四日

「坂本さん、どうなされたのです。」
千葉道場に戻ると、みな竜馬を見て驚いた。この地震騒ぎの中、女をおぶっている。
「この女は深川まで帰るのだが、この騒ぎ、明け方まで預かってくれんか。藩邸の様子を見て来る」

鍛冶橋屋敷について様子を聞くと、御門の瓦が落ちたぐらいで大事ないと。
道場に戻ると、さな子が出てきて
「坂本様の荷物は、もう地震もやんだようだからと、たった今深川にお帰りになられましたよ。あの綺麗なお荷物とどこにいらっしゃいました?」
「ついその辺りで」

memo プチャーチン・ディアナ号の遭難

大地震から次ぐ大津波は江戸から東海に何度も押し寄せてきた。
下田で幕府と和親条約を進めていたロシア海軍も、ディアナ号が大破し、水兵一人が死亡した。交渉場所の福泉寺も被災し、競技は一旦中止となった。

船舶修理のためディアナ号は伊豆の戸田港(沼津市)に曳舩していくと、今度は嵐に遭遇し、宮島村沖(静岡県富士市)で沈没してしまう。
ディアナ号を発見した三四軒屋の人々は、初め心配顔で見守っていました。やがて、乗組員を乗せたカッターが船から離れるのを見た人々は体に綱をまきつけ、乗組員全員を救助しました。三四軒屋の人々は、寒さにふるえる異国の人々に、自分の着ている上衣までぬいで着させてやるなど暖かい心で接したという話が残っています。

プチャーチン率いるロシア兵はその後陸路で戸田村へ向かい、ひと月後の12月21日に条約を結ぶこととなった。

この時海底に沈んだディアナ号の錨は、漁民の網を度々やぶることがあり「唐人のねっこ」と語り継がれてきた。昭和51年8月、この錨は五貫島の三四軒屋沖合水深24mから引き上げられ、沼津市立戸田造船郷土資料博物館に置かれています。