土佐藩陣地から出立_長州藩5

嘉永七年三月十九日

「じつは、宮田村にある長州陣屋から使いが参り、滞陣中の士気を鼓舞するため、剣術試合を催したい。と申してきている。土州10人、長州10人を選り抜いて試合をさせる。当然、竜馬がゆく。その時、試合も肝心じゃが、長州陣地をみてこい、というのじゃ。陣内わかったか」
「へへっ」組頭深尾陣内は、平伏しながら、
「竜馬、わかったな」
「はい」

その翌日の未明、品川の土佐藩陣地から、10人の藩士が、それぞれ、荒目の深編笠をかぶり、ぶっさき羽織、野ばかまという旅装で出発した。

memo 長州藩のふぐ

江戸時代、長州藩は武士が河豚を食することを固く禁じており、もし破れば厳しい処罰が待っていたとされる(中原雅夫『河豚百話』昭和四十四年)。当時は有毒の危険が、解明されていなかったからだ。
晋作の師である吉田松陰に、「河豚食わざるの記」と題した一文がある。これによると、松陰が河豚を食べない理由として「死を憚るるに非ざるなり、名を憚るるなり」を挙げる。武士たる者、忠義のためならともかく、河豚の毒に当たって生命を落とすなど恥辱以外の何物でもない。さらに松陰は、河豚を「阿片(麻薬)」同様と考える。誘惑に負けて河豚を食べるような軟弱な精神の持ち主は、阿片が流れて来たら貪るだろうとまで言う。

一方で、商都である下関の庶民は、旅客が河豚を食べなければ、嘲笑する風潮があったらしい。幕末、奇兵隊に入った商人白石正一郎の日記にも、河豚を肴に「志士」たちと酒を飲んだとの記述がある。